本

『ボクはこんなふうにして恵みを知った』

ホンとの本

『ボクはこんなふうにして恵みを知った』
河村従彦
いのちのことば社
\1400+
2020.11.

 語るようにずっと書かれているし、とりたてて大きな展開や深まりがあるというものではないように思う。しかし、思いこみの激しい人間に、その誤りを指摘するためには、このように同じことを淡々と、分かってもらえるまで語り続けなければならないものである。
 そう、その物わかりの悪い思いこみの激しい人間というのは、この私である。全く気づいていなかったに等しい者として、八木重吉ではないが、自分の間違いだったと呟くしかないような場面に追い込まれた。
 クリスチャン二世あるいは三世という立場の子が、どんなふうに信仰をもつのか。また、彼らに対して、一世である者がどんなに間違った圧力をかけており、また誤った理解をしているのか、それを思い知らせるための一冊となった本である。
 私とて、考えていなかったわけではなかった。私はその意味ではクリスチャン一世である。言うなれば劇的な回心を経験し、人生を百八十度転向してキリストのものとなった経験をもつ。しかし我が子のように、生まれたときから、否生まれる前から教会に行っていたという立場であると、当然信仰をもつという過程が異なるはずである。その過程の違いにはそれなりに理解を示し、決定的な信仰回心の場面があるはずだというような思いこみを以て接してはならないのだ。このくらいは分かっていた。
 しかし、より具体的に、その二世が、どのような言葉が重荷になり、何を言われたらどう感じるか、という具体的なケーススタディまではもっていなかったのである。それを、本書はずばずばと指摘してくれていた。まことにありがたいものである。
 著者は牧師であるが、牧会心理学というような、キリスト教世界の中でしか通用しないような特殊な分野ではなく、一般的な臨床心理士としての資格を持つに至った人である。それを活かして、キリスト教のカウンセリングセンターでも活躍している。心理の理解についてはいわばプロである。だがそれ以上に、著者は、牧師家庭に生まれ育った自身がその二世として苦しんだ経験をもっている。これが一番のポイントである。自身が傷つき、経験した思いを、しかしそれだけにより判断するのではなく、学問的根拠を用いつつ、淡々と「です・ます調」で語っていくものである。様々なケースで大人の態度のよくないところも指摘しながら、最後には本書のまとめも掲載しながら、祈りをもって終わるような印象である。
 教会の側の論理や心理も、よく分かっている。若い人を教会に招きたい。また、いまいる教会学校の子どもたちに教会をこれから背負ってほしい。献身者を出してほしい。いやいやそれどころではないぞ。中学生や高校生となって、部活云々で教会を離れていく若者が多いのも分かっている。どうか行かないで。ああ、最近来ないけど、と思っていたら久しぶりに来たぞ。やぁよく来たね、何ヶ月ぶりかな、などと声をかける。だが、こんなことはNGであるのだという。若い眼差しからすれば、教会の嫌なところに目覚めたのだ。幼い頃には分からなかった偽善に気づいてしまったのだ。
 そんな大人の対応を断罪するための本ではない。だが気づかなければならないのは事実である。大人の都合のために若者があるのではない。そんな目的で接しているようであれば、若者のほうはほんとうに教会に居場所がなくなってしまう。
 これは、読まねばならない本だと私は感じた。そして、それなりに配慮しているつもりであった自分が、やっぱり当の本人の気持ちを理解できていなかったこと、そして理解しようとしていなかったであろうことを、痛感させられたのである。まさにそのサブタイトルである「クリスチャン・ホームのケース・スタディ」とあるように、「救いの経験」を軸に、人格形成という心理学的な概念を交えながら、信仰というものを改めて問うものとなっている。
 いやはや、人を愛するというのはどういうことなのか、具体的に迫ってくるような思いがして、読む私も痛くなったが、それどころではない、二世三世の彼らのほうが、何倍も痛く過ごしてきたのである。心を尽くして愛する一歩として、この本の指摘を胸に刻んで、また改めて若い世代と共に歩み始めたいと強く願うばかりである。




Takapan
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