本

『「超」読解力』

ホンとの本

『「超」読解力』
三上直之
講談社+α新書
\840
2005.11

 やられた。
 私が塾で、国語を担当していたとき、小学五、六年生に教えていた授業の一部が、見事に本にされてしまった。
 もう少し詳しく言うと、国語の読解で、説明文ないし論説文をどう読むか、ということで、私が考案していた、読解の方法が、この本で解説されていた。だから読み始めたとき、これは私の授業を聞いていた人が書いたのではないか、と疑ったほどだった。
 私自身で自分の読解経験と、教えた経験から、まとめあげた、読解法というのがあった。それが、この本に紹介されていたと言ってよかった。
 そのため、奇妙な気分でコメントを書くこととなったが、それでも、細かく言えば当然異なるところはある。
 たとえば、著者は、126頁から、書き込みのルールをまとめているが、二項「対立」には、私は傍線ではなく、AないしBという記号を中心的な語のところにどんどん記すことで教えた。一般に、傍線は、長くなる傾向があり、またその情報を再取得するのに時間を要する。答えはBの内容から探せばいい、と分かったとき、著者のように波線を拾うよりも、Bの文字を拾う方が、間違いなく能率的である。
 また、関連事項は、矢印で結ぶように教えた。物事には方向性が感じられる場合があり、矢印はその関係を簡潔に示すからである。
 とはいえ、共感できる説明は、それらとは比較にならないくらい多い。
 鍵になる接続フレーズを○で囲むこと、とくに「しかし」の後は本音であると知ること、また、「逆説」が一番大切なところであることや、文章の書き手の心理としてどのように説得したいか、の暴露など、ほんとうに私が授業で述べたことが、よくこの本に載せられていた。本当にびっくりしている。
 183頁にあるような、国語の意義についても、本当にそうだと思い、子どもたちに訴えてきた。小手先のテクニックなどではなく、今後読書をするときにも、あるいは世の中の意見なるものを聞くときにも、必ず役立つ理解の方法を、私は伝えてきたのである。
 このほかに、物語や小説については、この本には全く触れられていないことであるから、よかったら小説の読解方法についても、著者の新作が期待されるところである。
 なお、130頁の「蛍光ペンの功罪」については、私は異議がある。私は、図書館の本は別にして、自分で買った本には、蛍光ペンを使っている。いつも胸ポケットには蛍光ペンが一本入っている。鉛筆などよりも、黄色いマーカーの方が、もしまた開いたときには、目立つからだ。著者は、本にメモとしての文字を書き込むときに蛍光ペンは使えないからよろしくないと断じているが、私は本には滅多にメモ書きをしない。思いついた事柄は、新潮社の「マイブック」の今日の頁にメモしている。でないと、本の中に書き込んだ感想やアイディアは、果たして、いつ再び目にするというのだろうか。その頁を再び開かないと思い出せないようなメモとは、何なのだろう。メモは、再び目にしてこそ意味がある。本の中にメモを埋もれさせてはならない。いつも目にするところにメモをして、せめてそこから、ある本の何頁にメモをしている、というリンクを張るのでなければ、そういうメモを書き込んだこと自体、忘却の彼方に行ってしまうのではないだろうか。会議の書類の余白にメモをするのならよいが、書物であれば、その中に大事なメモを入れるのは、メモ自体を埋もれさせてしまうことになるに違いない。
 因みに、この本は図書館で借りたのではなく、私自ら購入した。そういうわけで、上記の頁はドッグイヤーにした上で、随所に黄色いマーカーでラインが引いてある。もちろん、特記すべきことについては、「マイブック」に走り書きがなされている。
 それにしても、読解も文書作成も、世の中でも役割は増えていると思われるのに、どんどん人は思惟しなくなってきているように感じられる。私はこの本は、中学受験や高校受験のためによいものだと思うのだが、販売店は、大人に売りたいことが見え見えである。実際、大人はこの本を読んだ方がいい。目から鱗が落ちる人がいるはずである。
 そして、私が受験生にこの内容を教えていたように、世の中の人々も、改めて、読解のコツなるものがあることを、謙虚に学べばよいと思う。思索ということなしでは、思考力は滅びゆくものであるのだから。




Takapan
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