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『カトリック教会の諸宗教対話の手引き 実践Q&A』

ホンとの本

『カトリック教会の諸宗教対話の手引き 実践Q&A』
日本カトリック司教協議会 諸宗教部門・編
カトリック中央協議会
\860+
2009.11.

 ふと見かけて手に取ったのは、極めて実用的なガイドライン。第二バチカン公会議以来、開かれた教会という姿勢へと大きな転換をなしたカトリック教会であるが、さらに具体的に、他宗教とどう折り合いをつけるのかということについては、個人的な意見は様々あったことだろうと思う。困るのは信徒である。具体的に、仏教の葬式にはどう出席すればよいのか、数珠は、焼香は、と一つひとつのことについて迷うところであろう。その都度神父などに相談するというのも難しいし、かといってそれらは決して珍しい事態ではない。いっそマニュアルがあれば、誰しも助かるものなのだ。だが、そうしたマニュアルを出してしまうことには、リスクも伴ったことであろう。内密にしておけず、またケースバイケースで本当にいろいろな可能性があろうかと思われるからである。
 当然、やや抽象的なアドバイスとなるだろう。しかし、実際に開いてみて驚くことがたくさんあった。印象的に言うと、極めて緩やかなのである。
 構成は、まず一般的に、諸宗教との対話の心構えのようなことがあり、対立的ではなく対話的に進むことが決められていることをはっきり打ち出している。そこで他宗教とも、相互に尊敬しながらともに力を合わせることが求められるという。相互に良い影響を与えることが大切だというのである。しかし、根っこでは「神からの救いの教えが相対的であるとは考えません」というので、表と裏とがないわけではない。宣教の使命感というものがあり、心を開くという、なかなか太っ腹の態度であるようにも思えてしまう。
 そこから具体的なQ&Aが始まり、家族に異なる宗教の人がいる場合、特に宗教行事に川関わるときにどうするか、から入っていく。重要な概念は「参加」と「参列」である。参列になると信仰を受け入れることなので、「参列」をすべきで、しかも大いに参列しようという姿勢であるように見える。それは隣人愛なのである。こうなると、初詣も初日の出も、内心で神やマリアを思うなら全部OKとなる。門松も伝統文化なので大丈夫。諸節句も七五三も参列大いに結構なのである。御輿は好ましくないが、依頼されたら協力してよいとお墨付きであり、神社の協賛金もアリだし、子どもが地蔵に手を合わせてもそのままにするようにと言う。波風を立てないようにという配慮が見え隠れするが、さすがに占いはよしとはしないようだ。また玉串奉奠(ほうでん)や柏手は遠慮するように言うが、合掌や焼香は参列者として構わないようなことも書かれている。仏壇の位牌やお供えも差し支えなく、それが愛のわざを死者のためにささげることになるのだという。仏壇に手を合わせつつ、心の中で主よと祈るのがスタイルであるように説明されるが、もちろん他者の宗教信心を無視するというのが冷たいことだというのはよいことだろう。墓参ではお坊さんへはむしろ読経を依頼すると、仏教信者と共によい時がもてようし、墓の方位を気にする人がいたら反対する必要はないという。但し、水子供養については、堕胎は大きな罪だという厳しい態度がとられている。
 墓や死者に対するこの辺りの考えは、日本における姿勢としてずいぶんと念入りに説かれている。「死者との交わり」についても、カトリック教会の見解がコラムとして詳しく書かれている。これが日本では祖先との交わりという考え方の中で問われることになるのであるが、死後の世界やその裁きについては、人は知ることがない、という立場は徹底している。だからまた、寛容でいるというのも理に適っていると言えよう。「教会は自分の子らに対して、賢慮と愛をもって、他宗教の信奉者との話し合いと協力を通して、キリスト教の信仰と生活を証明しながら、ほかの宗教の信奉者のもとに見いだされる精神的・道徳的富ならびに社会的・文化的価値を認め、保存し、さらに推進するよう勧告する」という宣言が、第二バチカン公会議にあるのだそうだ。
 その後、社会的に称讃されるべきことについては宗教を問わず称え、不健全な社会風潮を是正し、正義と平和の実現のために協力していこう、というような社会的な視野で指針が示される。垣根をなくすのはよいことだろう。そのために常に胸襟を開き、他の宗教であろうと共通の理想のために集い、学び、祈り合うことの大切さが幾重にも説かれていく。社会教育や福祉についての態度は、いわば社会常識的なものであると言えよう。但し、たとえば死刑については廃止していこうという態度が、この日本の法と風土のために強く主張されているのが目立つ。また、他宗教との対話や協同がなされるための心得のようなまとめもあって面白い。
 さらに、他宗教の教えを学ぶことが推奨され、それがいっそうカトリックの教理を理解することにつながるものと期待されている。他宗教の中に見られる「真実で尊いもの」を皇帝することや、違う生活様式や戒律があることをよく知るべきこと、とにかく対立的でなく対話的であることが望まれることなどが改めて提示され、その中でもすべての人にイエス・キリストの福音を告げ知らせる使命感をもつべきことも忘れてはいない。その後、神社や仏閣を実際に訪ねるときの方法が明らかにされる。合掌も座禅のよいし、礼状巡りも参列ならどうぞという構えである。最後にイスラームについての解説も補遺として掲載されている。
 しかし、あとがきにあるように、ニューエイジ運動やカルト宗教に対しては態度が厳しい。彼らはそもそも対話をしようとしないし、運動のほうは教団の形式をとっていないからだというが、細かな具体的対応が定めにくいせいもあるだろう。また、伝統宗教と異なり、カトリックが相手にすべきではないというあたりの心理もあるのかもしれないが、これは個人的感想である。そして、靖国神社については本文中では一切言及がなかった。見解がいろいろあるせいもあり、カトリックの中央協議会などの別の本が3冊参照するように挙げられていた。
 さらに言えば、この補足的な「あとがき」からも隠されたことがある。それは「天皇」についてである。本書には、天皇についての記述が一切ない。天皇は政治であって宗教ではない、という見解からかもしれない。だが、皇室行事と天皇家の伝統は、確実に宗教と関連がある。カミとの関係を抜きにしては天皇制はない。少なくとも、そうでないという見解をカトリックがもつならば、それなりに一言でも触れたらよかったと思うのだが、とにかく一言も天皇については話題に上らせないのである。それは制度であり憲法の言うように象徴であるから、「諸宗教」には当たらないという見解なのかもしれない。しかし、天皇家の行事は悉く宗教的根拠に基づいており、カミとの交わりなどの意義が明確である。「皇室神道」とも呼ばれている。本書は神道関係の、習俗的なものについてはたくさんアドバイスがなされているのであるが、皇室神道のことがそこにあるようには感じられない。皇室神道に「参列」することも、それと「対話」することも、庶民はありえないから、考慮する必要がない、ということなのであろうか。
 だが信徒にとって、天皇を祭司とする様々な行事や元号その他皇室との関係は、生活の中で何らかの形で関わってこないわけではない。これに対して引っかかりをもつ人は当然いると思われるから、それを顧慮して「諸宗教との対話」のひとつのケースとして、何かしら触れても差し支えなかったであろうし、むしろ触れてほしかったと思う信徒もいるはずである。いや、まさかカトリックには天皇について何かしら意見をもったり、どう対応してよいか思案したりする人が、一人もいないのであろうか。これへの対応を明らかに、本書は避けているとしか言いようがない。むしろ天皇という宗教色深い存在と制度について、カトリックはどういう態度をとるのか、その見解をこそ、日本における信徒へのアドバイスであれば求められていたのではないか、と思うのに、残念である。
 組織的宗教ならではの対応マニュアルなのだろうが、非常に興味深い内容だった。プロテスタント教会でも、参考になることはあるだろうし、またカトリックとの対話という視点を考える場合に、知るべきことが多いような気もする。不思議でもあるが、本書において、プロテスタント教会との対話というものは、一切触れられていなかった。故意に無視されているという様子である。まさか、プロテスタントはカトリックと同じだから、という見解はないだろうと思う。プロテスタントとの対話という概念は、カトリックの中にある。だから本書の出版の後に、ルターの宗教改革500年を記念して、共同の礼拝が、かなりの準備と検討をもって実行されている。つまりは、そこにかなりの対話があったはずなのである。プロテスタント教会との対話など要らないという見解は、カトリックにはないはずである。諸宗教という概念に入らないから、という説明が恐らくなされるのであろうが、それならばまた、プロテスタント教会との対話は本書にあるようなものとは全く違うのだ、ということが言いたいとも思われ、よけいに対話の難しさが密かに感じられるのであった。




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