『ケアの本質』
ミルトン・メイヤロフ
田村真・向野宣之訳
ゆみる出版
\1500+
2087.4.
私が入手したのは2017年発行の第26刷。地味な本だが、読み継がれていることを示している。あるいは教科書として使われ続けているというのであろうか。出版社は「ゆみる出版」、これまでここから買った記憶がない。どうやら看護図書が中心のようだ。それだからこの「ケア」というものの本質を問う本が出されたのだといえよう。
著者のメイヤロフは、哲学者だという。医療従事者ではない。だが、医療従事者のために「ケア」とは何かを問うための試みをこうして営んでいる。1925年生まれで1979年に亡くなっている。
本書には「訳者まえがき」と「訳者あとがき」とがある。あまり例がないような気がする。先ず「まえがき」には、これが1971年出版の「世界展望双書」の一冊であることとその双書の特質が中心である。そして本書について、「読者自身をケアの動態に巻き込んで展開する稀有な著作」であるとする。「あとがき」に先立つ「解題」には、原著に付随する著作解説や紹介を訳出し、ケアについての本書のまとめを知らせる。「他者が成長するのをたすけること」だとしている。著者や編者についても、原著にあるがままを訳出することで、無用な解説を除こうとしているかのように見える。そして「あとがき」には、二つの「付録」についての説明がなされた後、本書と訳者たちとの出合いが紹介される。それぞれ「医学」と「教育」の立場から「ケア」について考えているときであったという。「ケアする人その人も変化し、成長を遂げる」ということが、心を動かしたようである。
そこにはまた「小さくはあるが本書は、類ない驚くべき書物である」と掲げられ、「私たちの日常生活、対人関係の具体的な場面」についての考察から、ケアを通して見えてくる世界を知らせてくれるようなことが書かれている。そして「自立」や「希望」といった、本書の核心について改めて触れられるが、その実際については、本書に直に触れてお感じ戴きたいと願う。サブタイトルの「生きることの意味」という言葉は原題にはなさそうであるが、こうした結末を見据えて、日本語の読者に対しての道標の役割を果たしているかも知れない
先に触れた「付録」の一つは、本書の原型となった短い論文であるが、私は巻末でこれに触れたとき、思わず膝を叩いた。あるいはこれを先に見ていれば、本書を読み進める上で、著者がどういう世界を見てこれを書いているのか、もっと確信を以て肯きながら読めたかもしれない、とも思った。でも私には、うっすらその予感がしていた。
つまり、本書は極めて抽象的にケアについて描かれている。まるでハイデガーの本を見ているかのようであるが、しかしこれは形而上学ではない。どちらかと言えば現象学であり、しかも事象へのアプローチであるから、ケアという、血の通った事柄への思考の営みが、温もりを伴って描かれている。それでも私には読みながら感じるところがあった。
ネタバレになりかねないが、やはりここはその「付録」における著者のスタンスというものを明らかにしておこう。それは「この論文を通して私が心に描いているある特定の例は、わが子をケアする父親なのである」ということである。そして私もまた一人の父親として、子に対してどういう姿勢でこれで向き合ってきたか、またそこから自分をどう成長させてもらえたか、そうした長い経験がある。その重みを一つひとつ解きほぐすように、ケアという言葉を核心として、言葉が優しく覆い、また剥がそうと本書から私にまとわりついてきていたのである。
それは、不完全な父親である。子を育てる役割からひとときたりとも離れることはできない。それでいて、自分が育てることにより、子の精神が形成されてゆく責任がある。自分が教えることは数多い。しかし、同時に子を育てながら、自分が教えられること、自分が育てられていくということを、生々しく感じ続ける日々であった。
そもそもケアとは何であろう。それが本書の問いのようではあるが、本書は最初から、一定の見解を決めている。著者はケアの中に、著者の世界を見ている。そこに、本書がどこまでも「ケア」という英語の読み方のままにこの語を使い続ける背景もある。訳せないのだ。もちろん看護の現場でも「ケア」という語を使う。へたに「世話」などとは言わない。それは「介護」をも意味するし、広く「看護」としてしまうのが妥当であるとも考えられるが、本書はやはり「看護の本質」としてしまうわけにはゆかないだろう。やはり「ケア」は「ケア」なのである。
たとえば猫を可愛がる。猫の世話をする。しかしそのとき、猫は人間を癒やすこともある。動物による癒やしという概念は、近年とみに注目されている。親が子をケアする。そのとき親は子によってケアされているというようにも捉えられ得るものであろう。
本書で論じられているわけではないが、「ケア」に対しては、しばしば「キュア」という概念が置かれ、対比される。「キュア」は医師が担う治療であり、「ケア」は看護師が担う看護である、というのが通常の理解である。しかし、本書が、父親から子へのケアという想定の中で流れていたように、それはもちろん看護ではない。「ケア」という語には「注意」や「用心」の考えも含み、「配慮」というのがひとつの広い概念として適切でありうるかもしれない。
ケアする者がケアされている。いや、案外それは、キュアされているのかもしれない。つまり、治療され、癒やされているということである。それはさらに延長すれば、「救う」ということになり得るのではないか。すると、医師と看護師とが共に患者を治していくように、キュアもケアも、対立する概念であるというよりも、一つとなって「救う」働きであるというようにも考えられるのではないか。
最後の「訳者あとがき」で、「唐突ではあるが」と訳者が持ち出したのは、パウロが伝道中に経験した「異邦人の救い」の問題解決の過程であった。それはパウロの根本思想が形成される場面でもあるという。そしてキリスト教会は、世界宗教へとそのことで脱皮したのだ、と言う。確かにこの指摘自体非常に唐突なのであるが、「救い」へとつながるインスピレーションがそこに与えられていたことは、私の視野にても起こっていたのである。
最後に、本書は後半で「場の中に(いる)」という概念を軸にして、ケアの本質へと迫るようになっている。これも実は私の世界観と紐がついている。私は「現場」という語を使うが、自分がそこにいて世界に影響を与え、また与えられるという関係の中で、「現場」に私は生き、私が形成されてゆくものだという捉え方をしている。そのために歩み出すエネルギーのようなものとして、近年「勇気」という概念を私は必要としているのであるが、その「勇気」も、本書ではさりげなく、しかし重要な要素として持ち出される。必ずしも概念構築を骨格的に建設しようとする著者ではないが、しかし単なる思いつきや空想の出来事ではないということは、私なら弁護できるだろうと思う。ともかく、「読む」ということで、読者の心も「ケア」されるのであれば、本書は人を生かすための導きになる可能性がある。できれば、そこに「信仰」という道が加われば、私が感じていることに、かなり共感して戴けるのではないかと思っている。