本

『キャラ化するニッポン』

ホンとの本

『キャラ化するニッポン』
相原博之
講談社現代新書1910
\735
2007.9

 キャラクターの略だよな――そんなことを純朴に信じていると、すっかりオジサン扱いされて然るべきとなる。コミュニケーションの中で、「○○キャラ」という言葉が氾濫しているのは、登場人物といった訳では通用しない世界である。
 日本では、このキャラが辺りを取り巻いている。どうしてここまでキティちゃん、と言われるほどのものがあるのも、もはや驚くには値しない。私は子ども相手の仕事をしているせいでもあるが、小道具として、教室に持ち運ぶカバンには、ガチャピンとスヌーピーがぶら下がっているし、ウェストポーチには、ウルトラマンティガと、福岡市動物園のレッサーパンダがぶら下がっている。レッサーパンダはどうか知らないが、とにかくこれらはキャラの一部である。
 このキャラが、もはやオタク的な趣味の中の世界ではなく、日本を覆っている空気そのものであるということで、様々な現象をキャラという言葉でまとめあげよう、というのがこの本の狙いである。  本来日本の歴史の中には、そうした要素があったということから始まり、なんと自己認識の場でも、キャラという概念が成り立っているという指摘など、刺激的な内容が続く。小泉劇場などはキャラ以外の何者でもなく、エビちゃんの解釈や、ケータイやブログのもつ意味などが、次々と、キャラ、あるいはこの傾向を名付けた「キャラ化」という言葉で塗りつぶされていく。気持ち悪いくらいだ。
 付録と称して、リア・ディゾンまで来たので、思わず「なるほどねぇ」と唸ってしまったほどだが、それというのも、どこかそれを肯定してしまう自分が、たしかにいるからである。
 これを、いかにもオヤジ臭く、経済効果などで計ることが一切なく、また心理現象などとすることなく、ただひたすらに若者を中心とした世相が、見た目で何をしているのか、というところに絞って滔々と綴っているのが、これまたいかにもキャラ的である、と言えるのかもしれない、と呟いてしまった。
 そんな中で一箇所、このキャラを、八百万の神々という多神教のバックボーンと関連されて理解しているところがあったのが、印象に残った。つまり、キャラはこうした古来の神々と重なる存在である、と。これは私からすれば残念なことに、この場限りでまるで思いつきであるかのように告げられて、その後再考されることのなかった思考枠なのだが、ここを深めていくと、また得るところが大きいような気がしてならなかった。キャラは神である、と。だからまた、むひょキャラ、つまり無表情さのゆえにこちらの感情を反映させることのできる存在として、有用なのだ、という説明も、納得してしまうのである。




Takapan
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