『カメラ・オブスクーラ』
ナボコフ
貝澤哉訳
光文社古典新訳文庫
\895+
2011.9.
カメラ・オブスクーラといえば、ピンホールカメラの原理で、まずは絵を描くために開発された道具である。この名前は「カメラ」の由来となり、ケプラーが付けたのではないかとされているが、この原理そのものは、遙か紀元前の時代に中国で知られていた、ともいう。
この道具が物語に登場するとは言えない。だから、何かしら象徴的に題が付けられているものと思われる。その辺りは「解説」に詳しい。物語についてそうしたことを、あまり明らかにはしないつもりなので、説明はご容赦願いたい。
作家は、ナボコフ。この名前でピンと来る人は少なくないだろう。私も呼んだ。かの有名な『ロリータ』だ。いまも通用する「ロリコン」は、この「ロリータ・コンプレックス」のことだが、12歳の少女を愛するハンバートが破滅に至る過程を描くが、ポルノ小説だとして大騒ぎとなった。1955年発行である。
本書は『ロリータ』に先立つこと20年余り前、ナボコフがロシア革命のためにベルリンに亡命中に、連載されていた。解説によると、本作は『ロリータ』と似たものを有した作品であるというが、『ロリータ』が非常に緻密に考え抜かれた構成からできているのに対して、本作のほうは、よりシンプルなつくりになっているのだという。その意味では、筋道もストレートであるし、すんなり読むことができると言えるだろう。
ベルリンに住む美術評論家のブルーノ・クレッチマーが、16歳のマグダを一目見て掘れ、関係をもつようになる。クレッチマーは裕福な生活をしており、妻と娘がいる。マグダは実にけろっとした少女であったが、かつてはロバート・ホーンという風刺漫画家の恋人がいた。この二人は別れていたが、クレッチマーの財産を目当てに近づく。ここから先は、クレッチマーがまるでピエロとなり、人生が狂わされてゆく。
Wikipediaの「プロット」を見たが、ここには妻と娘とのことが殆ど記されていないようだ。こうした要約を見ることなく、物語に入ることをお薦めする。
クレッチマーは、子も妻も失い、わがままなマグダに振り回されていく中で、マグダに翻弄されるばかりとなる。終盤の急激な展開は、もう目も当てられないほどだ。いっそマグダを殺してやる、というところまで行ってしまうのだが……。
ナボコフが生まれたの1899年。まだこの時代に許される文学であったように見える。『ロリータ』のように発禁処分には至らなかったらしい。確かに描写として、あからさまに書かれた様子はない。しかし、こうした書き方で、十分に読者を興奮させたのではないかと思われる。しかし作者の意図は、そういう劣情に訴えるようなところにはなかった。しかも、あまり複雑な手法で制作したのではないと思われるが、その辺りは本書の「解説」に委ねよう。
それにしても、男はこうまで女の魔力に狂ってしまうものなのか。それが未成年のマグダということのために、物語は異様に見えるのかもしれないし、中年男がその沼に落ちて行くという点が、よけいに哀れさを暴露していることになるかもしれない。設定はともかくとして、私は個人的に、分からなくもない、とは思う。さすがにそれなりの年代になってからこうはいかないだろうとは思われるが、若気の至りという意味では、この熱情が理解できない訳ではない。もしかすると、多くの男にこうした心理について共感できるところがあるからこそ、多く読まれたのだろうか。「ロリコン」も、必ずしも揶揄して終わるだけのものではないような可能性もあると思う。
カメラ・オブスクーラは、単純な光の入口の先に、外の世界と同じ景色を映し出す。訳者も触れている点に重なるが、小説を読むということは、このように明確に映し出すことを拒む営みである。そこにあるのは文字だけである。だが、読者は確かに画像を頭に思い描くだろう。断固として視覚そのものを表現しない文学が、どのようにして情景を思い浮かべるのか。あるいは逆に、私たちは現実を見ているようで、どこまでそれを自分のこととして理解できているのか。
私は自由に考えていた。人の心はそもそもこうした闇であって、外の世界を映し出して、外を分かったふうに思っているだけなのかもしれない。プラトンの「洞窟の比喩」に、何か痛みをすら感じることがあるのも、そういう経験が多くの人にあるからではないだろうか。しかも、ピンホールカメラの原理だと、スクリーンに映る画像は、外の景色と上下左右が逆転している。映るものそのものは、外界を倒立させたものに過ぎないのだ。世界を上下そのままに見ているのではなくて、逆さまに見ているのだ。私たちの心に、これが世界だ、と映し出されたものは、すっかり逆のものであるかもしれない。
それにしても、このマグダという少女、スレた、というよりも、なんと強かなのだろう。その挙句、感情的で、計算高い。本当に16歳であるのかどうか、その年齢でも、こうしたことはわりと普通であるのかどうか、私には分からない。妻のアンネリーザが、なんとも普通の女に見えてしまうのは、マグダという女の描き方が、優れていたからだ、ということなのだろうか。
人生は、少しばかりのめりこんだことによって、簡単に破滅するのだ。ほんの少しだけ、という気持ちを、軽く扱ってはならない、と思わされたものだ。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド