本

『文章の書き方』

ホンとの本

『文章の書き方』
辰濃和男
岩波新書328
\602+
1994.3.

 辰濃和男さん。懐かしい名前に惹かれて、古書店で購入した。かつて天声人語を担当していた。退かれて後、その名を聞いたのだったかしら。朝日新聞といえば天声人語、と言われるようなコラムである。荒垣秀雄さんに継いで執筆期間の長い人で、私が大学生のときに、朝日新聞をとっていたから、日々読ませて戴いていた。
 岩波新書に、その辰濃和男さんの書いた、『文章の書き方』があったことを、これまで知っていたのかいなかったのか、自分ではよく分からない。「文章読本」と呼ばれるようなものは、多々ある。私も幾冊か読んだように思う。辰濃さんは、そのような形を取らなかった。「書き方」である。書き手の名手だからこそ伝えられる、極意とでも言うべきだろうか。
 文章については、各地で講演会に呼ばれていたらしい。それをいま、誰でも読めるようにとまとめたことになる。モットーとしては、「文は心である」ということなのだそうだ。「まえがき」の1頁目から、それが括弧で目立つように記されている。  興味深いのは、本書はどこから読んでもよい、と記されていることだ。こうしたものは前言を踏み重ねた上で、書き方が明かされていくのだと思ったら、違った。
 書写をするとよい、ということなどに触れた後、いよいよ本筋に入る。現場に出ることの大切さは確かにそうだ。体験ているのとしていないのとでは、筆の勢いが違う。本書とは関係がないが、教会の説教にしても、牧師自身が体験していることは、命を伴って伝わってくるものだが、そうでないことは、幾ら丁寧に調べたところで、何も伝わってこない。命がなく、霊に響くことがないのだ。
 各項目のタイトルは、「無心」「感覚」「均衡」というように、短い言葉で代表させ、それぞれにサブタイトルのように言葉が付せられている。「無心」ならば「先入観の恐ろしい」、「感覚」は「感じたことの表現法」と、まあありきたりのようなこともあるが、「均衡」は、(1)と(2)とがあって、それぞれ「文章の後ろ姿」「社会の後ろ姿」というように、謎がかけられているかのようだ。
 同様に「遊び」には「異質なものとの出あい」とあるが、どうそれらの言葉が結びつくのか、むしろ楽しみにすらなってくる。15頁かそこらで一つの項目は閉じられるが、文章の名手の文章である。実に味わいがあり、流れるように続いてゆく。その「流れ」という講もくんが、本書の最後を飾る。どこから読んでもよいと言いながらも、やはりここにある順で読みたくなるものである。
 本書の特徴として、様々な引用があることにも触れておこう。著者の意見がただ並べられているのではない。文章の巧い人々の実例が挙げられている。ただ、類書では、その引用がけっこう長く、見本市のようになっている場合もあるのに対して、本書は著者の伝えたいことの援軍として、小気味よく爽やかにちらりと引用されるかのようで、本文の説明を引用が邪魔しないように、だが著者の考えが独自のものであるのではなく、多くの作家や執筆者がちゃんと理解して応用しているからこその留意点であることが、よく分かるようになっている。
 しかも、先に挙げた項目のように、ありふれた文章教室に掲げられたコツというようなものではない。一つひとつが、人生の機微を感じさせる、含みのあるものとなっている。他にも強調されたものとして、「品格」がある。これは「ものごとを見つめるゆとり」のことだそうである。切羽詰まり、焦って綴るようなものではない。私風に言えば、懐の深い世界観である。視点を多くもつことでもある。
 こうなると、なんだかしみじみと師匠の話を聞かせてもらっているような気がしてくる。決して文章の書き方に留まらない、人生論のようである。そうか。だからこそ、「文は心である」というわけか。そしてその文は、人生であり、その人の価値や意味となってくるものでもあるに違いない。
 一つひとつ、文章に、というよりも、生き方について、教えを乞うような気持ちになってきた。なにせ、言葉は書くだけが表現方法ではない。私は日々、この口から他人に語って生活している。語る言葉、それはどういうふうであるべきか、ここから学ぶことがたくさんありすぎて仕方がない。語るとなると、推敲ができないし、その場での即時対応が求められる。ある意味で、書くよりもいっそう高度なレベルが要求されるかもしれない。
 コミュニケーションの場で、ひとと共に生きるために、大切なことが詰まっている。私は、そんなふうにこの先輩の話を受け止めた。




Takapan
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