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『「文系学部廃止」の衝撃』

ホンとの本

『「文系学部廃止」の衝撃』
吉見俊哉
集英社新書0823E
\760+
2016.2.

 先に『大学とは何か』という岩波新書に触れていたのだが、その筆者が、五年ほどの時を経て記した、テーマとしては類似の新書である。
 ただ、今回は、政府が文芸学部廃止を打ち出したというマスコミのセンセーショナルな報道が、執筆の動機であるように見受けられる。だから、文系学部に焦点を当て、大学のあり方の問題をそこを軸に解説する。
 何も文系学部を廃止するとしたわけではなく、それは明らかにマスコミの「やりくち」のようなものである。そこからまず誤解を解くように説明を施す。しかしこの背後に流れる考え方、そこは大きな問題であると指摘する。つまり、「文系学部は役に立たない」というのが暗黙の前提のようにある、それは本当なのかどうか、ということである。
 大学は経済効果のためのものか。「役立つ」というのは、経済のことなのか。直接的に近い目的の実現のためには、確かに文系学部が貢献できるのではないようにも見える。理系学部のほうが、テクノロジーの開発で利益が出せるのは確かだろう。
 現状として国公立大学と私立大学との事情を冷静に挙げながらも、文系はやはり弱くなっていかざるを得ない事情を指摘しようとする。しかしそもそも文理というものはいつからこのような価値評価をされるかのように分かれてしまったのだろう。その「役に立つ」というのはどういうことなのだろう。『大学とは何か』では、中世ヨーロッパにおける大学の成立とそこでの理念などが詳しく説明され、啓蒙期などでの大きな変革を辿り、他方明治期の日本がその制度を取り入れるときにどうであったかなどを根底的に辿ることをしてくれていたが、本書は近年に的を絞り、今回の廃止騒動で取り沙汰された「役に立つ」という概念の成立する背景を検討していく。
 大学は危機的であるのだという。少子高齢化がある中で、大学数が増えているというとんでもない事態が現実にあることを指摘する。その他、大学内部の人間だからこそまた把握している、大学の問題を挙げながら、どんな改革が望ましいかを模索していく。あるいは、筆者の中にすでにあるその考えをぶつけようとしてくる。
 こうなってくると、そもそも18歳で大学に入らないといけないのだろうか、とか、批判精神を養うための現場での変革とか、おそらく体験的なことに基づくものが多いような、様々な提言も並んでくる。宮本武蔵の二刀流に比した話は非常に興味を惹いた。リベラルアートと呼んでよいのかどうか分からないが、文理を横断するような学び方をもっとすべきではないか、というのである。東大生のように、文理どちらにも才覚のある学生が、文理間のつながりを断った東大にいるのは皮肉なことであり、もったいないことなのだという辺り、私も共感を覚える。その点、京大は伝統的にその交流があった。そこにノーベル賞受賞者を多産している背景を見るひとも多かった。しかし、時代はもはや京大というわけでもない。国際的に研究分野で力をもつ大学は、もっとほかにたくさんあるのだ。東大や京大は、その点ずっと劣るのだという。いまや時代の潮流は変化している。ICUの評価が高いのは当然だが、九大も変革して良くなっているのだという。こうした情報が随所に隠れているのも、本書の魅力だと言えるだろう。
 最後に謎のように「普遍性・有用性・遊戯性」というタイトルで、章が設けられている。ここにも再び宮本武蔵が登場してくる。そこにちらちら見えてくるのが、「あそび」である。「文系は役立たないけれども価値がある」などと言って文系を擁護しているかのような意見に対して恐らくカチンと来た筆者が、熱意の中で一気に書き上げたような本ではないかという気がするが、「あそび」という発想が、間違いなくこのちゃんと「役立つ」ことの基本にあるというふうに、見取り図を描くのである。
 この本筋はぶれていないと思うが、なにしろ大学内の情報のようなものも含めて、あれもこれも述べておきたいという筆者の熱意が感じられるために、あれもこれも放り込んで綴られたような印象が、ないわけではない。もしかすると、最後の「あとがき」を最初に読んでから、本論のほうを読んだほうが、読者の側も、ぶれないで済むかもしれない。「あとがき」をまずお読みになることを勧めておこう。




Takapan
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