本

『仏教徒であることの条件』

ホンとの本

『仏教徒であることの条件』
西村惠信
法蔵館
\2520
2004.12

 著書の多い花園大学学長がこれまでに語ったり書いたりしたものを、あるテーマで集めたもの。タイトルよりもむしろサブタイトルの「近代ヒューマニズム批判」の方が、内容を端的に示しているように見える。
 現代置かれている仏教の立場をよく理解し、自らの体験からくる様々な半生を踏まえて、その禅宗という世界から、この社会に関わっていく意気込みが強く感じられる。
 仏教という広い見地はもとより、禅宗の説明を丁寧にしたり、人権やいのちの問題を仏教がリードしていこうという考えや、学長として学問を掲げるにあたっての言葉など、本来別々の原稿が並んでいるため、時に同じことが何度も言われていることにも気づく。それだけに、著者が言いたいことは何であるのかもまた、分かりやすいと言えるかもしれない。
 著者は若い頃キェルケゴールと出会い、如何にして真のキリスト教徒となるか、というその問いに仏教の立場から刺激を受けたという。そしてアメリカに渡り、クエーカー教徒の中で一年余り生活したことが、大きな経験となっている。そのため、著者自ら、キリスト教に深く関わった仏教者として発言し、評価を得ているという。
 もちろん、それは仏教の立場に立っているわけである。キリスト教の理解が外面的であったり、画一的であったりすることもあるだろうし、なにしろ、クエーカーという、かなり特殊なグループとの関わりである。それを以てキリスト教のことが分かったとは、普通言えないものである。
 そもそも仏教がいわゆる宗教だと呼べるのかどうか、はたまた宗教とは何のことか、など、問われるべきことは多い。著者は、健全にも、仏教は本来「智慧」としての役割を果たすことを告げる。私もそう思うし、だからこそ、仏教を無闇に排斥しない。
 ただ、著者がキリスト教の役割がもう終わったかのように述べたり、仏教こそが高い立場から考えているような本音を覗かせたりするのは、立場上仕方がないとはいえ、サブタイトルの「批判」にはそぐわないように見える。つまり、この本は、学術性や根拠の点での信頼よりも、講演会でのウケの良さを鑑みてまとめられた発言だ、と理解したほうがいい。学長先生の結構な講話、というわけである。
 それでもなお、講話なら講話のごとく、「いい話」というものは沢山ある。そういう気持ちで読めば、「仏教」を「ヒューマニズム」という概念に接ぎ木することに成功していないのではないかという思いも抱く必要がなくなる。
 仏教は、ギリシア的論理を受け付けない「智慧」なのであるから。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります