本

『仏教漢語50話』

ホンとの本

『仏教漢語50話』
興膳宏
岩波新書1326
\756
2011.8.

 西洋語の背景に、ギリシア・ローマ文化とユダヤ文化とがあるのは常識である。もちろん、その他ゲルマンだとかケルトだとか、由来を訪ねれば多々あるのであるが、大きく捉えてヘレニズムとヘブライズムの影響は二つの柱であると言うことができよう。何もキリスト教を信仰していなくても、言葉の端々に、聖書や教会での用語が混じったり、語源を隠し持っていたりということが頻繁に起こることだろう。それも、全く知らず識らずのうちに、ということもしばしばであることだろう。
 日本においてもそのようなことが起こる。日本人にとり仏教は外来宗教には違いなかった。だが、日本としてまとまっていくときの政治状況の中で取り入れられたこの外国の宗教は、言葉として輸入され、そのまま日本語の一部分を確かに形作ることとなった。そして、それは全くそれだと意識されないままに、日常語ともなっていくことがあっただろう。  今の私たちの感覚を基準にしてそれを判断せざるを得ないのだが、中にはこれは仏教語だとほぼ認識しているものもある。「阿弥陀」や「盂蘭盆」はどう考えても仏教関係だと誰にでも分かる。「涅槃」や「殺生」もだいたいそうだと感じることだろう。この辺りからは人の知識や生活感覚により異なってくるが、「我慢」となると、おやそうなの、と思う人が多くなるだろうし、「睡眠」「平等」となると、へぇ、という声が聞こえてくるかもしれない。「愛」や「玄関」そして「人間」とまでくると、まさか、という顔もあるだろう。私もまたその類である。
 仏教関係の雑誌に連載されていたものをまとめた本である。それでひとつひとつの項目がはっきりしており、読みやすい。少しの合間に1テーマ、という目の通し方もできる。また、どこから読んでも構わないため、気楽に手に取れる。50という数も程よいものではないかと感じる。いい本だ。
 大切な点は毎回のように繰り返し強調されることになるから、読者もよい学習者となれそうだ。つまり仏教用語は、時代的な理由によるのだが、中国南部の呉音で読まれたままに日本に入ってきた。その後平安期からは漢音で読まれるように漢字が定められていくのであるが、それまでに定着していた仏教用語については、呉音のままで引き継がれていくようになった。このため、現代でも漢字の音読みが複数あることがある。それは大きく分けて呉音と漢音なのだ。こうした時代背景は、語の解説の基盤となるから、最初にも注意が喚起されるが、本編でも幾度となく繰り返し説明される。「人間」は私たちの誰もが「にんげん」と読むが、仏教用語としては「じんかん」である。「間」の字があるように、これは「ひと」のことではなく、むしろ今でいう「社会」を表す。それが、すでに今昔物語の時代あたりから、「人間界に住む者」という意味で今のように「ひと」そのものを指すように傾いていったという。そして、仏教伝来以前からこの「じんかん」は使われていたといい、必ずしも仏教と共に生まれた言葉ではないのだと説明されていく。中国語でも今「社会」を表すのが当然で、個人的「ひと」を表す用法はないのだとも付される。このように、興味は尽きない。
 つまりは、仏教こそが語源だ、と示すのがこの本の目的ではなく、仏教での言葉の捉え方がさかんに紹介される、というふうでもある。そもそもその漢語にしても、サンスクリット語などから訳されたものであるが、この中国語への訳しかたについても、大きく二つの方法がある。そのまま音訳したもの、つまりは当て字とも言えるような音だけの訳しかたと、もうひとつは、元来の外来語の発音は捨てて、意味を表すことができるように漢字をあてたという場合である。「禅」や「僧」なども漢字そのものは意味が異なったり、あるいは作られたといった背景があったりするそうである。漢字の意味を追えばむしろ理解不可能というのが後者のケースなのである。
 他方また、「寺」のように、元来「もつ」という意味の語が住まいを表すようになり、元の「もつ」意味のためには「てへん」を付けなければならなくなったというように変化もある。これは漢字にはよくあることだ。「鼻」と「自」の関係も似たようなものである。
 このように、仏教に関する言葉、仏典に出て来る言葉について、広く紹介してくれている。これらは、知らず識らずのうちに私たちの思考の基盤になっている場合がある。なにしろ思考は、言葉によってなされなければならない宿命にあるのだから、たとえ本人は意識していなくても、仏教的な背景を基に考えを進めているということになるのである。日本人のキリスト者もまた、いつのまにかそうである可能性がある。そもそも「神」という言葉も、失敗だったのではないか、という研究者もいるくらいだ。「大日」とされたり「主」とされたりいろいろな経過を含む語だが、概念として別物であるならば、その後により別の要らぬ概念前提が混じり込むことだって十分に考えられる。私たちが、日本語でこうだからこういう意味だろう、と勝手に違う道を走っていくことだってありうるということである。
 古い意味とは違うから、新しい用法は間違いだ、というのも行き過ぎであろう。だが、古い意味を探ることには意義がある。自分では意識していなくても、どういう思想背景の中で考えているか、それを弁えることができるからだ。先の「人間」ひとつとってもそうなのだ。聖書を神の言葉と信じる福音派であったならばなおさら、仏教概念に基づいた言葉から聖書を解釈し尽くすというようなことについては、警戒していかなければなるまい。仏教がいけない、というのではない。聖書を、自分勝手に解釈することになりかねないからである。解釈する私自身が、仏教文化の中で思考しているならば、いつしかそのアングルから、あるいはその色の眼鏡で、聖書を判断してしまうことになりかねない、と注意しているのである。
 興味深い本である。分かりやすくて、楽しかった。




Takapan
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