本

『ブとタのあいだ』

ホンとの本

『ブとタのあいだ』
小泉吉宏
メディアファクトリー
\997
2007.2.

 ブッタとシッタカブッタ――こう聞いて、ああ、と思う人は、本屋が好きな人だろう。ひところ話題にもなったし、本の売れ行きや話題に関心があれば、知らない人はいないのではないかとも思う。
 飄々としたなりふりのブタたちが主役の、四コママンガである。その切れ味がいい。「かんがえるカエルくん」も何か通じるものがあるかもしれないが、あちらは、沈黙のコマが多い。こちらは、四コマしかないので、沈黙があればそこが効果的に、必然的に取られたとしか考えられない。なにか、禅寺で座禅でも組んでいるかのような沈黙をそこに感じるのは、私だけだろうか。
 コママンガだけでも面白いし、考えさせてくれるが、この本は、エッセイが主体である。そのエッセイの内容をコママンガで表現するとどうなるか、というような感じで、一つのエッセイに一つの四コママンガが置かれている。もしマンガだけだったら、何か深いものがあるなとは感じても、それが何であるかは把握するのが難しかったことだろう。それが、エッセイにより、より具体的にどういう思考が背景にあるかを知ることにより、マンガの示すところが何であるのか、どうしてそのマンガが成立しているのか、そんなことが迫ってくるように分かる。
 ただ、そのエッセイは、それなりに筆者の体験や具体的な経験例が盛り込まれてはいるものの、議論はきわめて抽象的で、人生の真理を一般的な言葉で説いているかのようにも見える。本を読み慣れていない人には、難しく感じるかもしれない。
 しかし、これは人生論である。人生についてまともに考えたことがあれば、この抽象的な語りが意味不明ということはないであろう。人生経験から深く考えさせられたということがあれば、そのうちのどれかと、それぞれのエッセイが結びついていくであろう。たとえ賛成ができないにしても、そのような考え方は分かるよ、と言えることであろう。
 可愛いブタくんたちのコママンガばかり見ても十分楽しめるが、文章を見ると、そのマンガの言わんとしているところが全部分かる。この文章にもなかなか味があり、限られた字数の中で、よくこれだけのことをまとまった形で表現できるものだと感心する。またそれらは、深い人生への思索から生まれたものであるために、ふざけたところや嘘が混じっているようには見えない。まさに、マジなのだ。
 書評をしている人の中に、この本についてなかなかうまいことを書いている人を見つけた。時々こういう本を読んで、心の深呼吸をする必要がある、というのだ。なるほど、心の深呼吸か。ゆっくりと息を吸い、また吐いて、空気の入れ換えをし、そこからまたリフレッシュされた新しい気持ちで、歩み始めるというのである。深呼吸をするからには、そこにはきれいな空気があってほしい。純朴な考え方があり、自分を見つめるものでありたい。たしかに、この本はそういう知恵に溢れている。
 私などは、そうした事柄について考えるのが人生であったようなものなので、この本にある知恵について、目を開かされた、というようなことはないが、私が考えたことがあるような「知恵」が分かりやすく書かれてあるという点については、感心するところが多々あった。
 ブッタというキャラクターを、筆者は作り出している。これは「ブッダ」をもじり、それをブタのキャラクターを使って語らせているものだから、たんに洒落でそうしたというだけでなく、少なからずそこに仏教の知恵を採用している。というより、仏教について学ぶ中から得られた知恵というものであるのだろうと思う。この本にも、そのような「知恵」という捉え方が前面に出ている。
 結論めいたものも、ちゃんと記されている。「べき」や「願望」を基準にして物事を考えずに、「ありのまま」を大切にしよう、というのである。それが、この「ブとタのあいだ」というタイトルに結びついている。いわゆる中庸の徳というものを主眼としているのである。だからまた、仏教的だと言えるのである。
 筆者は、宗教団体を嫌っている。それは自己実現の自己というものを、組織に置き換えただけのものであって、いってみれば私利私欲の原理で動いている点ではかわりがない、というのである。それをエゴと呼び、エゴでは自分を救うことにはならない、としている。
 それはそうだろう。しかし、最後の最後で、こんなことを書いている。「社会的に成功したあとで、仏門やキリスト教の門を叩いて、精神的に満足しようとする。そこに真の救いはあるだろうか。これらすべてがエゴのなせる業だ」と。筆者が批判しているようなやり方をしている人がいない、とは言わない。だが、宗教というものをこのようにしか捉えていないのだとしたら、それは筆者の了見の狭さというか、限界をさらけ出していることになると思った。仏門についてはとやかく言うまい。知らないことを持ち出すわけにはゆかないからだ。キリスト教については、体験として知っている。キリスト教の門を叩く、というような表現は、キリスト教の信仰からすれば、殆どありえないような姿なのである。もしかすると、「狭き門」とか「門を叩け、さらば開かれん」とかいう言葉から、イメージしてしまったのかもしれないが、キリスト教は「出会い」である、とは言うことができても、「門を叩く」ものである、というのは、ひどく的はずれである。エゴが死んでしまうところが信仰なのだから、これを以てエゴのなせる業だ、とするのは、もはやキリスト教というものについて批判していることにはまるでなっていない。
 そう。確かにここに書いてあるのは、その門を叩いて自己実現をしよう、と企むその人のことであって、キリスト教というものがそうだ、などと筆者が書いているわけではない。その意味では、筆者が勘違いをしている、という指摘は適切でないかもしれない。だが、読者にそのような印象を与えかねない表現になっているのは確かだ。キリスト教を求めることは救いにならない、それはエゴだ、と言っているように見えるのである。そもそも、この文脈に、キリスト教という名を出す必要は、全くなかった。筆者はこの本の中で、ここに至るまで、キリスト教ということは持ち出して来なかったのだ。なんでわざわざこの最後になって突然持ち出すのか、ということが問題である。この語を使う必要は、全くなかったのだ。そこまでずっと書いてきたように、「宗教団体」でよかったのだ。
 このように見てきたとき、この筆者が、イエス・キリストと出会うことがこれからあったら、きっと大いに目が開かれることだろう、と思われてならない。それまで見えていなかったものが見えるだろう、と楽しみである。諦観や中庸からくる仏教的な「そのまま」というあり方の中にも、根柢にあるどす黒いものが「そのまま」居座っているのだということを痛感し、それを帳消しにしてくれたイエス・キリストと人格的に出会ったとき、それまでと全く違った世界が現れてくるのに、と思っている。私も、そうだったのだから。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります