本

『聖書を読む 新約篇』

ホンとの本

『聖書を読む 新約篇』
新約聖書翻訳委員会編
岩波書店
\2730
2005.12

 これは、買った本である。薄くて高い本を買うのは、勇気が要る。家族に、厚い本のほうがいけない、と叱られつつ過ごしているから、薄い分は家族にはまだ「仕方がない」と思われるのだが、やはり割高に感じてしまうのは何故だろうか。
 それでも、買った。これは大きな刺激になると思った。こと聖書にかけては、どうしても必要と思えば、価格は気にしないことに決めている。
 あの岩波訳の聖書について、翻訳の際の議論や訳語の検討のレポートのようなものが、集められているのである。これは、ほかでは得られない情報である。そして、今私自身が、一日に数行という新約聖書の読み方を続けており、その徹底したこだわり思考をするにあたり、いろいろ気づくことが出てきていたので、そういう考え方でよいのかどうか、など、気になることも多かったのだ。
 この本の中でも、裸の王様の比喩が使われていたのだが、たしかに権威ある解釈が輝いていると、それに追従しなければならない雰囲気ができてしまう。プロテスタントならば、聖書は各自が読むものだから、各自の読み方があってもさしあたりよいことになっている。それでも、お偉い人の読み方や訳し方に、いつしかただ従っているだけ、というのが通例なのだ。
 もちろん、根拠なく自分の感情で読むのがよい、というのではない。可能なかぎり、原語ではどうか、など調べたらよいのである。日本語訳のイメージで理解していると、とんでもない誤解の路線を走り続けている、ということがありうるのだ。
 この本は、岩波の新約聖書を訳したときの、こぼれ話というような形態であるとも言える。しかし、どう訳すかという問題は、徹底的に考えようとすると、聖書をどう理解するか、どう伝えるか、ということから僅かでも浮かせて捉えることはできなくなる。
 特定のグループに与することなく、ギリシア語の原典と対峙しつつ、聖書が記された意味を逃さず味わおうとする姿勢が、そこには必要なのである。しかもその原典というのが、唯一のものとしてあるわけではないために、写本どうしのつながりやそう改訂した背景の思想を考慮するなど、膨大な想像力と推理力とが、そこに動員される。
 クリスチャンも、聖書に一言も記されていない言葉を、自分の信仰の要に置いているようなことがある。かといって、聖書のこう書いてあるからこう読まなければならないんです、と片意地を張るものみの塔のような組織人員になっていくのは、さらに好ましくないと考える。時に、聖書の訳語のひとつの違いにより、あるいは関係代名詞のかかり方、さらに言えば、元来原典にはない読点をどこに打つかにより、違った解釈が可能になるなど、聖書は単純には掴めないようにできている。聖書のメッセージと信じていたものが、実は誤解に基づいていた、というようなことも、大いに考えられるであろう。
 一羽の雀すら、父の「許し」なしには地に落ちることはない。有名な箇所であるが、「許し」という語は、原典にはないという。それはどうやら文語訳に縛られているためであるという。これが、先に挙げた裸の王様の比喩のあったところである。父が許せば雀も罰を受けるというふうに、いかにも冷酷な神のように見えるこの訳が、原典に戻って「父なしには地に落ちない」と読むと、地に落ちるときも父が共にいる、という福音がそこに現れることになるのである。
 もしかすると、読者の、聖書観が大変換を遂げるかもしれない。私はそもそもが厚顔のクリスチャンであるから、こうした読み方をむしろ歓迎するものである。聖書がもたらそうとする福音にそぐわないと感じるひねくれ方をするものでない限り、神の真意を垣間見るような思いがして、わくわくさえするものなのである。




Takapan
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