『ブラフマンの埋葬』
小川洋子
講談社
\1300+
2004.4.
ブラフマン? インド哲学で聞く言葉である。なんというか、言語を絶するようなものなのだろうが、宇宙のすべてを支配する力のようなものなのだろうか。あるいは謎としか言いようがない、とも言う。
小川洋子さんの作品をさほど読んだわけではないのだが、どうにも登場人物に名前がない場合が目立ち、また、これは映像化はできないのではないか、と思しき場面にも遭遇することがある。このブラフマンについては、その姿が全く隠されており、読者の想像の世界でのみ現れるかたちをとるものだと思われる。かといって、描写がなされないのではない。ちゃんと描写されている。だが、それは正体が不明なのだ。
なんだかよく分からない、芸術家が身を寄せる建物「創作者の家」の管理人が語る。その広大な敷地で、偶然にそのブラフマンと出会う。今にも死にそうな傷を負い弱っていたのでいろいろ苦労しながら手当をし、なんとか命永らえ、職務上あまりよからぬことではあったが、一応飼うという形をとることになる。
その僕すら、名前のない、また姿や年齢や経験など、特別のレッテルが貼られることのない不思議な存在である。だからこそ、先入観なしに、その立場になりきることができるということなのかもしれないが、恐らくそんな計算をしてのことではないだろうと思う。
ブラフマンは、様子を見ていると犬のようなものに感じられる。作者が犬好きであることからそうなるのかもしれないが、えらく長い尻尾があるという描写のほかに、肉球のある足の指の間に水かきがあるということが最初に書かれているため、読者の決めつけを阻止してしまう。いったいこいつは何なのか。最後まで分からない。
小川洋子さんのやり方に基づくとはいえ、特別な事件が起こりその解決が図られるというようなことはない。日常の観察日記であるようなところもあるが、それなりに登場する何人かの目立つ人の眼差しの中で、ブラフマンはそれなりに愛される。レース編みの老女だけはどうしようもなく毛のある動物がだめだというのできつい当たり方をするが、自分のそばに現れなければよいというだけで、ことさらに憎んでいるというふうでもない。謎の娘という若い女性も、ブラフマンを殺処分にしかねないようなところに晒すつもりはない。
特に因果関係がどこかにあるわけではないのだ。だがそれがなおさら、このブラフマンを、読者は自分も飼って可愛がっているような気持ちに、だんだんなってくる。いわゆる「情が移る」という現象が起こるのだ。
墓地が物語にちらちらと出てくることからも、そしてもちろんこのタイトルからしても、ブラフマンは最後には死ぬのだという予感を抱かせつつ物語は続く。ちっともブラフマンは弱らないではないか。最後のほうで、違法をはたらく人間が登場するから、ここで死ぬのかな、と思わせぶりにしながら、何も起こらない。
映画ならば、なかなかの演出である。そうしてほっとさせておいたところで、結末を迎える。
いったい、人生とは何だろう。自分の人生には理由や根拠があり、その筋道に従って事件が起こる、ドラマチックな逆転などを見せつけつつ、感動的な結末を迎えるのだろうか。そんなことがありえないとは言わないが、きっとそうではないだろう。何か訳や不条理があっても、後からそう言えばと故人についてしみじみ思い出すくらいのことはあるかもしれないが、映画や派手な小説にあるような展開にはめったにお目にかかれないだろう。
何の準備もないところで、終末がくる。そして日常は、優しさに包まれていたならば、とことんそうなのだが、時折障害があるなどしながらも、それなりに安心を日々覚えつつ、何がどうということもないままに時が過ぎていくというのが人生なのだろう。
その意味では、この物語は、実に日常的である。まさにこれぞ人生というような様子が見えてくる。それをわざわざ読む必要があるのか、という人がいるかもしれない。自分は空想の世界に刺激を求めているんだ、非日常がそこにあるから本を開くんだ、という人も当然いるはずである。それももちろん、ひとつだ。しかしまた、こうしたただの日常を自然な川の流れのように見つめる時間を、いくらかでも客観的な眼差しで見る経験をもつことで、逆に、自分の人生は改めて見つめる機会を得るのではないか、という気がしてくるのだ。つまり、ただ自分の毎日の生活だけを営んでいるだけでは気づかない、しかしまさにその自分の平凡ではあるが唯一のかけがえのない人生を見つめる視点を与えられるように思われるのである。
終わりというものは、必ずある。物語はその終わりがあるぞということを予感させつつ、しかもその終わりをへたにお祭り騒ぎにすることなく、世の定めとでも言わんばかりにとても自然に描くのだ。
だから「ブラフマン」なのかもしれない。宇宙の原理はそうしたものだ。それが分かっているのに、自分の思いのままになるものではない、命というものの終焉を、自分ではない者の死によって、疑似体験するのである。
物語が、あらすじで一言で述べられるようなものであるならば、小説を書く必要もないし、読む必要もない。小川洋子さんはそうした考えをもっている。その意味では、この物語の筋道を紹介するというようなことは、全くナンセンスであることになる。そう、しばし他人の人生を体験することで、跳ね返って自分自身を思うようなことへと落ち着くようなひとときを、私たちはこうした物語によって、もつことができる。その豊かな時間を味わえたならば、私たちはささやかな幸せを得たことになるのではないだろうか。
このブラフマンも、不幸な生涯ではなかったことだろう。語り手の僕も、激しい感情は少しも出さないが、その感情は、読者に委ねておけば、その役割は果たしたということになるのかもしれない。
その意味では、確かにこれは、異世界を体験させてくれる、まさに文学であったということになるのだろう。