本

『某』

ホンとの本

『某』
川上弘美
幻冬舎文庫
\750+
2021.8.

 単行本として登場したのが2019年。その時から、気になっていた。なかなかチャンスがなかったので、ついに文庫になってしまった。それでも、少しでも安く買おうと考える狡い私だった。
 お名前は、と聞かれたけれど、答えることができなかった。
 これが冒頭である。いきなり心を引っ張っていく。記憶喪失かしら、と案じたが、それどころの話ではなかった。自分が何ものだか知れない。それどころか、まるでアイデンティティというものが成立しない主人公なのだ。医師と看護師も飄々としている。重大な病気であると大げさに関わることがなく、好きにやってみなというような態度で接する。そして、男女どちらかさえ分からないというようなままに、丹羽ハルカという名前を与え、高校二年生であるとし、履歴や性格も適当に決める。そして現実の高校に通うということになる。
 法的にどうなのか、そんなことは気にしない。とにかく高校生として生活を始めたということが、物語のスタートである。設定としては近未来であることをにおわせるものが時折現れるが、ことさらに発展した機器や科学があるわけでなく、限りなく今に近い世の中である。その中で、読者がリアリティをもてる社会の中で、この「誰でもない者」が生きていく様子を目撃していくことになる。
 丹羽ハルカは友だちとの間でぎこちない経験をした上で、医師は失踪を提案する。「次は、どんな者になるの?」と看護師のからかいは決して冗談ではなく、男になってしまう。同じ高校二年生だが、男である。そして、感情をまともにもてないようなままに、セックスを求め、くり返すことになる。
 こんなふうにして、転生めいたものが時折起こり、男女構わず別人として生きることになる。年齢層も様々であり、壮年男性でもあったり、キャバクラ嬢になったり、様々な社会を読者に見せる。普通に読んでいけば、それぞれただの別人の物語であるのだが、わずかに記憶がつながっていることから、このキャラクターは細々とアイデンティティを保っているところがある。
 こんな話である。だから、これは映像化は不可能に近い。もちろん役者を変えて、言葉による説明で同一者だということを見せていくならばできるかもしれないが、難しいだろうと思う。やはりこれは、文字だけで読者の心の中に描かせるのがベストだ。へたに映像化すると、この小説のもつ魂、あるいはエネルギーというものが、壊れてしまうのではないだうろか。
 こうして幾人かになってはまた誰かになる。いったいこのキャラクターにとり「自分」とは何ものか、もっと問うてもよいような気がするのだが、そういうふうでもないように見える。ただ、少しばかり読者も退屈し「またかよ」と思える中盤にきて、物語はひとつの展開を迎える。仲間が現れるのだ。同じように、誰でもない者が、幾度か誰かになっていくという同類が、同類の存在を嗅ぎつけて集まってくる。そう多くはないが、この世の中にいるらしい。こうしてその何ものでもない者たちが交わるようになり、連絡も取り合う。途中でまた他人になっても、それぞれつながりを保つし、そうなると名前が面倒にも鳴るから、ギリシア文字のアルファだのシグマだという呼び名で互いを区別する。これは多分に、読者への配慮のような気がする。そうでもしないと名前を変えて別人になっていく経緯の中で、どれがどれと同じか、壊滅的に分からなくなっていくからである。
 身体の構造からしても、人間ではないらしい。感情もどうも人間のものとは違う。だが、最初に丹羽ハルカだった者は、いろいろな人生を経験した上で、最後には女性として、恋愛感情のようなものを抱くようになる。また、死というものについて考え始める。この辺りから、作品の中核のほうに、この死の問題が関係してくるものであろうことが感じられるようになる。
 最後は最後らしいひとつの結果となるのだが、もちろんそれをここで明かす気はない。ここまでもネタバレめいたものをしてしまったかと思うが、むしろ関心をもってもらい、本を手に取ってくださる方がいるかもしれない、という期待をこめて宣伝として書かせてもらった。
 文庫版についている「解説」は、忠実にこの物語を辿り、まさに解説するものとなっている。ともすれば物語とはあまり関係がないことを書き連ねる「解説」もあるものだが、これについては、実によくまとめた、そしてストーリーを振り返るものとなっている。そのためあまり立ち入った解釈のようなものはないように見受けられるが、だから私が感じた捉え方が適切であるのかどうか分からないのだが、私はこの物語から心を揺さぶられたところがある。
 タイトルの「某」だが、物語の中では、最後近くになってようやく登場する。誰でもない者を呼ぶ「某」とは、正体不明の者かもしれないし、名をもつがそれを出さないという場合にも使える代名詞である。それは、アイデンティティを明確にしていない。あるいは不明であるというニュアンスをもつことから、私たちが、特に現代人が、果たして自分というものをどう見ているのか、というところに関わるように私には思えてならなかった。それは「自分探し」にも関係しているかもしれないが、探しているくらいならまだよくて、私たちは、自分はこうだ、と勝手に思い込んでいるものがあるけれども、実は自分について問うていないが故に、思い込みの錯覚だけでいい気になっているのかもしれない。私は「自分」を持っているとはいえないのではないか。
 そして、その「自分」のアイデンティティは、死と向き合ってこそ、切実に引き受けるものとなるはずであるのだが、アイデンティティが怪しいからこそ、死という形で自己とも向き合っていないのかもしれないという気がしてくるのを私は否めなかった。何ものでもない者として、私たちは誰でもないのではないか。私は誰なのか。その私が死へと向かっているというのはどういうことなのか。
 それを、概念的に規定するのではなく、それぞれが考えてみたらよいのに、というような突き放し方をして、読者に考えるヒントを投げかけた、そんな作品であるように私には思われた。もちろん、これをも含めて、誰もがそれぞれに、物語を受け止めて、レスポンスすればそれでよいのではあるが。




Takapan
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