本

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』

ホンとの本

『ぼくはあと何回、満月を見るだろう』
坂本龍一
新潮社
\1900+
2023.6.

 重い病気であることは伝えられていた。だが、2023年4月1日、4日前のその死が報じられると、世界中から惜しむ声が寄せられた。ミュージシャンなのか、アーチストなのか、なんと呼べばよいのか分からない。さしあたり「音楽家」で許して戴こう。イエローマジックオーケストラで知られるようになったと思うが、映画音楽関係で世界に名を轟かせたことになる。
 すでに『音楽は自由にする』で半生を描いた本を出版しているが、本書は、本人が発行そのものを知ることはなかった。これらの原稿は、雑誌『新潮』の2022年7月号から、23年2月号まで連載されている。その最後の言葉が、死去の際によく引用された「芸術は永く、人生は短し」であった。
 タイトルだけからして切ないが、ガンと向き合って生きていることが、最初の月から宣言されている。内容は、短いエッセイ風の文章の集まりとなっている。その都度思いの流れで、あるいはかなり断片的に、書かれたものが集められた形で、一月分の原稿となっている。私生活のことから、もちろん音楽のこと、そして自分が死を見つめて生きることなどが、赤裸々に語られている。私は個人的に、彼がプラトンやカントなどを次々と読んでいった、という辺りに、思うところがあった。
 殊更に治療の苦労などを記すつもりはないらしい。むしろ淡々と、治療や手術について話す。もちろんその陰にはどんな思いがあったか、推測するしかないにしても、壮絶なものがあっただろう。だが読者に同情されようなどという精神は微塵もなく、本当に淡々と、文を連ねてゆく。
 そのとき私はふと思った。この人は、なんと聡明な文章を書くのだろう、と。文そのものはもちろんのこと、言葉やつながり、内容すべてが、読む側にストンと入っていくのだ。実にスムーズに、読者の心に落とし込まれてゆく。それは、文章が巧いからにほかならない。中には、音楽や芸術についてのやや専門的な話や、親しい芸術家とのやりとりなど他人の全く知る由のないエピソードも混じってくる。だが、それらでさえ、違和感なくこちらへ届けられるのだ。坂本龍一の文章をまとまった読んだことのない私にとって、これは発見であり、驚きであった。
 21世紀に入り、まず父親、その後母親と死別している。この母への思いが第2章のタイトルに付せられている。そのときの文章が皆母親に対してのものではなく、母親についてたくさん書かれてあるとは言えないのだが、なんだか熱いものが伝わってきた。
 その他、各地でいろいろな人との出会いが花を咲かせる。世界の一流の人々との交流が、さりげなく描かれているが、通ずる心というものは、言語や文化が違うからできないというものではないのだと教えられる。まさに「音楽は自由にする」のであろうか。
 仕事の上での失敗の章もあった。それが「初めての挫折」だというから、小さな失敗はそもそもカウントしていなかったのだろう。芸大修士という経歴からしても、豊かな才能を遺憾なく発揮してきた中で、その背景に、健康上のターニングポイントがあったことが大きいように見えた。自らの生死を問うという経験は、人間に大きな衝撃を与えるものであるには違いない。
 最後の二つの月は、かなり音楽的な専門的な内容が続き、私はその詳細については分からないと言わざるを得なかった。いま言っておかなければ、という思いで、ギリギリまで自分の世界を、希望と共に明らかにしたかったのではないか、とも想像される。あるいは、もう1か月先の分まで書けたとしたなら、また別のことを書く予定でいたのであろうか。契約上のことは分からないが、私は、これで最後だと覚悟しての絶筆ではなかったか、と推測する。自分の個人的な思い出や経験のことというよりも、音楽の行く末への期待や夢を、そこに載せていたように感じたのだ。
 平和や文明についても、考えを公表していた。災害に対する支援もした。それを売名だと言われることには、ついに何も感じなくなったという。売名のためなら、そんな面倒なことはしませんよ、と。その通りだ。外野から「売名」だなどとヤジを飛ばす者にだけはなるまい、と改めて思った。
 終わりに、ジャーナリストの鈴木正文氏が「著者に代わってのあとがき」を記している。坂本龍一の最期にいたる経緯が、よく描かれている。背景事情もよく伝わってくる。但し、できればこれは、本文をすべて読んだ後に覗くことをお薦めしたい。年譜の前の最終頁にある「フューネラル・プレイリスト」についても、そこに説明されている。どうしてその作曲家だったのか、本文にも多く触れられているように思うのだが、私はそこに、バッハの作品が最も多く採られていることを、哀しい目をしながら見つめつつも、口元に笑みを浮かべることで、お応えしようかと独り考えていた。




Takapan
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