本

『僕んちは教会だった』

ホンとの本

『僕んちは教会だった』
陣内大蔵
日本キリスト教団出版局
\1000+
2007.8.

 NHKのラジオの「宗教の時間」となると地味過ぎてお年寄りだけしか聞いていないかのようにも思われようが、登場する方々はなかなかの方が多く、聞き得だと勝手に理解している。
 その番組に、陣内大蔵さんが登場した。どこかで名前は聞いたことがあったが、それと牧師という像が結びつかなかった。ミュージシャンである。それもかなり名前の知れた方だ。しかしいまは牧師をしているという。人物像に迫るこの番組は、録音して家族で聞いた。
 調べてみると、本があった。自分の生い立ちを雑誌に連載していたようで、それがまとまったものだという。安価で手に入ることが分かったので早速取り寄せた。思った以上に小さな本で、ハンディだったのには驚いた。エッセイが集められていることは分かるが、100頁にも満たないので、まるで詩集のようだった。
 著者は、教会で生まれた。父親が牧師だった。それで神の存在は当然のことのように育ってきたが、そんな中で別の宗教の友だちとの関係や、同じ世の中の出来事を見たときにも、友だちとは違う見方をしているということについての感覚などが、生き生きと描かれている。父や母とのエピソードを含め、具体的な出来事が扱われ、その中で自分の心の中のものがどうであったかを吐露する。
 もしかすると、そういうのは、教会ウケするだけで、キリスト教信仰のない人にとってはよく伝わらない内容であるかもしれない、とお思いだろうか。これらは『月刊カドカワ』に連載されていたものだという。ということは、キリスト教雑誌というわけではないのだ。そうなると、最初から、誰の目に触れても意味が伝わり、また関心をもってもらえるような文章でなけれぱならないと考えるだろう。それは成功していると思う。それでもなお、教会の内部からの視点で綴っていくのだが、それでもおそらく、誰もが満足するような文章だろうと私は思う。
 というのは、この人、文章が巧い。やたら巧い。頭の良い人なのだろうということは分かるが、それ以上に、読む側の心理を意識しながら書いているのがよく分かる。いや、当人は意識していないと言うかもしれないが、きっと知らぬ間に意識しているのだ。読む者の気持ちを掴む技術は大したものだ。それは天性のものなのかもしれないが、どのエッセイも読んで何一つ不明なところには出会わない。いたずらな子どもの兄弟を初め、父親の性格や母親の才覚などを、子どもの目で見ていたものをそのままに、描ききっている。
 大学に進もうかというあたりまでのことが書かれている。それにあとがきが加えられて、その後のことが駆け足で紹介される。そうしていまの牧師という生活につながるのだ。
 教会生活は順風満帆というわけではない。好きな音楽で応募したポプコンで賞を獲得し、プロデビューへの道を進むために大学をやめた。関西から東京に行き、栄誉もあったが回り道をして、また教会に戻ってきた。最後にそのようなあたりが書かれ、少し安心する。いろいろな経験をしてから牧会をするというのは、よいことだろう。音楽的には申し分のない才能のある人だから、音楽を生かした形でも活躍しておられるのだろう。吉祥寺というから福岡とは殆ど関係のないような遠い土地だが、何かの機会に福岡へいらしてはもらえないだろうか。
 ラジオでは、最後に「あー、生きててよかった、生まれてきてよかったという瞬間を皆さんに感じてもらいたいので、キリスト教信仰を伝えている、命の源である神さまはそう感じてほしいと思い、喜んでいる、というのがぼくの信仰です。同じように心震わせませんか、というつもりで、牧師とミュージシャンとを両輪でやっています」というようなことを最後に話していた。含んでいるものが違うだろうとは思うが、これも私は共感できる。だから、直接お話ができたらいいのに、と思ったのだ。




Takapan
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