本

『牧会者の神学』

ホンとの本

『牧会者の神学』
E.H.ピーターソン
越川弘英訳
日本キリスト教団出版局
\3990
1997.7.

 キリスト教書店のご主人に、「これはいい本ですよ」と勧められて購入した。
 私にとり、それはえらく高価で痛手ではあった。だが、これは神からの挑戦として、導きとして、買うことにした。
 最新刊ではない。しかし十四年を経て第三刷というのんびりとしたペースながら、絶版にならずに出されている。何より、開いただけで感じたその霊的な力の漂いに、私は意を決したのだ。
 実に地味な装丁である。副題も「祈り・聖書理解・霊的導き」という堅さだ。ところがこの副題こそ、この本の内容をずばり言い当てた適切なものでもあった。原題は大きく異なり、日本語として示すのになるほどこれでよかったのかもしれないと思った。また、扉の裏に、「この本は……」と珍しくこの書の意図が明確に短く載せられており、これもまた実に的を射た文であった。
 これほどの値段の本であるにせよ、言おうとしていることは実に単純で、簡潔にまとめられるということであった。しかし、だから割に合わないなどと、私は考えることはできなくなっていった。それは、ひとつひとつの文から漂う霊の息吹は、読む私にとりビタミンのように染み通り、私を生かすものであることが明確になっていったからだ。
 これは優れた本である。
 日本の牧師は、ここに指摘されているアメリカの牧師とは事情が違うかもしれない。あまりにも多すぎるアメリカの牧師事情からすれば、たとえば日本の公立学校の教師の中に問題教師が現れるのと同じように、牧師としてどうかしらと思われるような人が少なからず現れることは当然予想されることである。しかし、著者は自ら牧師として経験したこと、また今することから、アメリカの牧師世界に拡がり根付く病弊を、根本のところにおいてずばりと指摘する。それは、教会経営に長けた牧師ではあるにしても、いのちのない牧会に明け暮れるアメリカの教会の姿であった。
 いろいろ並べ立てるのではない。その根幹を、「祈り・聖書理解・霊的導き」の三点に絞って説き明かす。それはそれで十分であった。とくにその聖書においては、「読む」ことに対する警告を与え、「聞く」ことに徹する重要さをとことん追究する。私のような筆力では、それを短くここでお伝えすることはできない。これは、黙想とともに、お読みいただきたい。そして、この本はそうやって読んだとしても、聖書は、「聞く」ことで触れていただきたい。
 ただ、私は正直ひとつだけ気になることがあった。
 著者は、この聖書から「聞く」ことを強調している。それはいい。「読む」という、どこか自分中心で客観的に触れることとは異なり、「聞く」というのは人格的な交わりを予想し、いわば神との「出会い」と「差し向かい」を実現する情景であるから、聖書をそのような神から自分への言葉として受け取るために「聞く」ことを提唱することについては、私も大賛成である。
 しかし、著者はこの「聞く」という事柄を「音」として聞くことに限定しているように随所で記している。それは「声」であり「音」でなければならない、と。
 そうだろうか。
 もしそうならば、ろう者は永遠に、神の言葉を受けることはできないことになりはしないだろうか。
 ろう者の耳が開かれる、と聖書は語る。旧約も、そしてまさにイエス自身も。しかし著者は、聖書から神は音で語り、聞く者は音で受け取らなければならないかのように繰り返している。ろう者が手話を用いるにしても、それはある意味でやはり目で「読む」ことだと言われるかもしれない。しかし、私は、何か象徴的な意味で「聞く」ということでよいのではないかと思う。文字は人を殺す、という言葉すら著者は引用して、書かれた文字を読むことで満足する現代的なあり方を批判するのであるけれども、聴者の言う「音」を認識することができない人々は、それとは違う「聞き方」をしているものだと私は信じたいのだ。それは、私自身が経験することがいまのところできないものであるから、体験的に言うことはできない。しかし、音波によるものでなくても、神の声は伝わるようなことに一言も触れることなく、「音」しかだめだというふうに圧力をかける点は、どうしても著者に賛成できないのだ。
 とはいえ、霊的ないのちを与えてくれる点で、この本の輝きは失せることはない。日本の牧師の中にも、霊的に死んでいる人がいることを私は知っている。というよりも、そもそも救いの経験すらないのに牧師という職業に就いている人が現にいるのである。それはこの本の初めのほうで記されているように、聖書の言葉を時折交えて尤もらしく牧師という立場から語れば誰もが感心するので仕事が成り立つのだ、というようなアメリカに起こっているありさまが、日本にも現にあるということを意味している。
 牧師自身、誰かに導いてもらう必要があるという最後の章など、およそ牧師が吐きたくない弱音のように聞こえないこともない。だが、それは私が常々考えていることであったし、まさに真実がはっきり告げられた点で、建前に飾る日本の風土の中で、実に新鮮に、爽快に聞こえた。日本人の好む美談や建前的な信仰談では何か違うなと感じたことのある人は、きっと清々しい思いで読めることだろう。少々値が張るのではあるが。




Takapan
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