本

『身体の時間』

ホンとの本

『身体の時間』
野間俊一
筑摩選書0049
\1680
2012.9.

 20世紀哲学のテーマのような題名だが、サブタイトルには「<今>を生きるための精神病理学」とある。そう、著者は医学の方面、精神科医として働く方なのである。
 広く現代に特徴的となってきた精神医学的現象を、ひとつの基礎ないし原理というところから捉えてみようということのように見える。
 そこで、まずは話題になっていること、知られるようになった精神現象が登場する。「フラッシュバック」である。私たちも普通に「トラウマ」という言葉を使うようになり、ますます軽々しくなってきた感じさえするが、法的な観点からも、PTSDといったことは、もはや知らないでは済まされないこととなった。
 しかし話は急に、多重人格の問題に移る。そこに若干の哲学的な考察も含めながら、現代の私たちが、自己と呼ぶときにそれが何か精神的なものだけでなく、身体の影響を外してはいられなくなったという点を指摘することにより、タイトルと合流するようになっていくのであった。
 それは、うつ病や境界例といった、だんだん認知度が上がり、何かと取り上げられるようになったケースが取り上げられる。そのうち、自傷行為の例が挙げられ始めると、読んでいくのが辛くなるくらい、その現実の有様が目の前に突きつけられる。考えるだけで痛みを覚えるような状況の展開だ。ひところケータイ小説が流行った、あるいは今もそうなのかもしれないが、そういう小説では、お決まりのようにリストカットをし、その辛さをいたわる異性が現れて立ち上がる云々といった筋書きが用意されていたのだというふうなことを聞いたことがある。しかし現実がそう美しくあるわけないのだが、なんだかムードに見せられてリストカットにまた読者が走っていく、ということのないように願いたいものだと思った。
 そこから祝祭論で新たな次元を紹介して、私たちの身体感覚が今どういうところに置かれていくか、思索が深められていく。著者の視点は、身体と時間という問題に集まっていく。あまりに疎かにされてきてしまっている身体というもの、それこそが限られたその時間を埋めていく鍵にならないだろうか。単純にそう言ってしまってはいけないのだが、方向性はそういうところなのであろう。
 バーチャルな世界に親しみ、あるいはそのパターンを現実のすべてであるかのように思いなしているかのような現代、とくに若い世代がそうなのかもしれず、気づいたときすでにケータイ文化から始まっていたみたいな時代だからなおさらそういう側面があるのだろうけれど、しかしそうでなくても今電車内でケータイなしでは過ごせないかのような大人たちがいくらでもいる様子を見ると、そこに何の身体性があるのだろうかと、たしかに私も疑問に思う。直に話ができない。出会いなどという面倒くさく恐いことはできるなら避けたい、そうした社会が目の前に浮遊しているわけだから、著者の動機というのも、案外そういうところにあるのかもしれない、と勝手に想像してしまうほどである。
 もちろん、この本が出てくるにあたり、東日本大震災の影響も当然にある。周辺で震災について語る私たちが、どれほどの身体感覚を以て、あるいは痛みを以て、それを体験しているといえるのだろう。しかし現地では人は繋がっていく。そこには身体がある。生のいのち、生き方がそこにある。
 私たちは確かに、自分の身体をも大切にしていない。自分を愛することができなければ、ひとを愛することもできない。聖書の思想をそこに読み込むやり方もあるのだが、まさにこの自分なるものの重要性こそ、身体という問題の基本であるのかもしれない。
 書かれてある思想は簡単に理解できるものではないかもしれないが、そこから私たちは、自分のことをまた新たな見方で知ることができるような気もする。刺激を受けるということはいい。しかも机上の空論のごとく頭の中で観念ばかりがぐるぐる回るのではなく、身体の痛みを伴うような形で、深く考えてみることは、もっと試みていいはずのことだと言えるはずである。そんな旅へ、人を誘う本は、深い思いやりに溢れているものなのだ。




Takapan
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