本

『青い鳥』

ホンとの本

『青い鳥』
メーテルリンク
堀口大學訳
新潮文庫
\362+
1960.3.

 価格は近年のもの、発行は初版で記録しているので、不自然な表示となることがある。堀口大學訳というので、ちょっと警戒したが、実に美しい口調とリズム、そして気品のある訳であった。
 名前や著者は有名でよく知っている、しかしその本がどんな内容であるかはあまり知らないし、第一、邦訳でもよいと言われたにせよ、原著を読んだことがない、そうした本を私たちはたくさん有している。この『青い鳥』もそうで、幸福の青い鳥を求めて旅に出たチルチル・ミチルは、最後に自宅に戻ったところで青い鳥を見つける、だから幸福はもともと自分の身近なところにあったのだ、ほかを求めるのでなく、といった説明をよく聞くものであろう。実際訳者もそのような内容のことをあとがきに記しているのだが、そうした割り切り方でよいのだろうか、と私は思う。
 戯曲であるから、それぞれの役のキャラクターがいる。とんでもない恰好をしているものだし、「光」など具体的にどうするのか知りたいし見たいとも思うが、その細かな規定に時折どう対処してよいか分からなくなることがある。しかし実際のやりとりの中で、たとえばネコの狡猾さや小心さも目立つし、馬鹿正直な犬はそのネコのためにずいぶんと損な役回りをも演ずることになるなど、キャラクターの色が濃い。
 光の中にキリストを見るべきであるのは、クリスチャンならば常識であるが、そうでない方々にはこれらのキャラの動きや考え方などに、聖書の理解が役立つことには気づかないのであろう。「わたしを愛してくれて、わたしも愛している人たちは、けっしてわたしを見失うということはないのですよ」と光が言うのは、幕の終わりのばたばたとした時であって、この台詞がどの程度必然的であるのかは分からないのだが、こうしたところに、光の性格をさりげなく聖書と重ね合わせていることはたぶん間違いない。それは、信仰を呼び起こすためというよりは、文化的な背景ということで、これが何か神的な役回りであるということを伝えるためのものであったのではないだろうか。
 光はほかにも「この世の終わりまで人間のそばについていてあげますよ」とか「いつもわたしがいて、あなたたちに話しかけているのだということを忘れないでくださいね」とか、別れの場面で告げる。キリストの言葉でないと、誰が言えるだろう。
 幸福とは何だろうか、と途中でじっくり考えさせるところもあるし、これから生まれる子どもたちがひしめいている国の話など、どきりとさせる設定であった。
 青い鳥を諦めかけ、そもそもこの世にはいないんじゃないか、という疑いを始めるのは、チルチルやミチルではなくて、実に光なのであった。そう、この世ではないのである。クリスチャンならば、その構造は分かるだろう。幸福が元の家にあった、というお話ではないはずなのである。チルチルとミチルは、森や墓場を経て、生まれる前の世界すら経験してきて、そうして戻った元の立ち位置というのは、たんに元いたところであるのではない。マルコ福音書で弟子たちがイエスと旅をしてきて、読者もその弟子の一人としてその旅に加わるのであるが、終わりに来て再び最初のガリラヤに戻るように御使いに呼びかけられる。そうして最初に戻ったとき、果たして元いた最初にいるのだ、とは思わないはずである。確かに最初の場面に戻るのであるが、先々のことを経験してきた者は、最初と同じように最初のところにいるのではないはのである。
 いまではベタな夢落ちにしても、当時は新鮮であったに違いない。だが夢から覚めたことは、元の状態にリンクするのではないはずである。夢の中で経験してきたことを、子どもは自分の経験値として取り入れ、これから役立てていく。光が一番好きだった、と告白するチルチルは、確かにそこで光と出会っていたのである。
 青い鳥は最後に逃げて行く。悲しみが場を覆うが、チルチルは泣かない。恐れるな、と宣言するかのようである。ぼくがまたつかまえてあげる、と言い切る。この強さは、かつてのチルチルにはなかったものである。しかも、観客へ向けて、誰か青い鳥を見つけたら返してください、と呼びかける。聖書が、読者に、あなたはどうか、と呼びかけるかのように、ここでもまた、劇中の人物がタブーを犯して、読者なり観客なりに、あなたもこのプレイに参加しているのだと意識させる演出である。青い鳥は「ぼく」に返してくれと言いながらも、「ぼくたち」は幸福に暮らすためにいつかあの鳥が必要になる、そう言いながら劇は幕を閉じる。観客もすべて含んだ「ぼくたち」であるならば、これは聖書の福音の呼びかけと何も違わないものだと言える。
 再び最初に戻ったチルチルや読者や観客たちは、さて、ここからどういう旅を始めるであろうか。これがまた、聖書の構造と同じものとなっている。単に作者がキリスト教文化圏にいたから自然とそういうのに囲まれていただけだ、とするのも勝手だが、こうしたことが次から次に出てくるとなると、ひとつ聖書とのつながりを究めてみるのはどうだろう、と、私は無責任に、自分にはできないことを、誰かにしてもらおうと呼びかけるのである。これは説教者や牧師の立場であるのかもしれない。




Takapan
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