本

『生まれてきたことが苦しいあなたに』

ホンとの本

『生まれてきたことが苦しいあなたに』
大谷崇
星海社新書
\1100+
2019.12.

 著者自身がこのペシミストを自称しているのだから、その解説により描かれる世界が暗く沈んだものになりがちなことは否めない。しかしこの本はシオランという思想家の生涯と思想を辿るものであり、このシオランという人こそ、ペシミストそのものであったというふれこみで本が綴られていく。サブタイトルが「最強のペシミスト・シオランの思想」というのである。
 本の帯は「"生きることを嫌う"からこそ、あなたの人生は楽になる」と、逆説的な言葉で誘いかけてくる。時代の中でいま「生きづらさ」という言葉がブームである。過去の時代と比して、とくにこの日本という場に生きていて、安全面からも、物質的、労働的条件からも、比較にならないくらい安心でき安楽な生活ができているとしか認められないような現代の社会の中で、どうして「生きづらさ」という言葉がしみじみと思われ蔓延していくのだろうか。かつて王侯貴族でも味わったことがないような生活を、私たちはしていると言えないだろうか。だのにどうして、生きていくのがつらいのか。
 それは理屈ではない。嫌だから嫌なのだ。つらいからつらいのだ。理屈や比較ではない。結局、物質的社会的な状況がどのように発展したとも見られていたにしても、ひとが人生に対して懐く「苦」なるものは、普遍的であると言えるのかもしれない。釈迦が人生は苦であるというところから思想をスタートさせたが、それは少しも変わっていないということなのかもしれない。ただ飾る舞台や演出が変わってきただけであって、脚本のテーマや本質は何も変わらないでいるのだということなのかもしれない。
 エミール・シオランというのは、1911年に今のルーマニアで生まれ、第二次大戦後フランスで本を書いた思想家である。「ペシミストたちの王」とも呼ばれ、その思想は暗い。本書にしばしば引用される彼の言葉を見ると、本当に生きていくのが苦しくなり、死にたくなってくるような思想に満ちている。だがまたそれは、確かに私たちの心の中のどこかにあるような考え方でもある、それは確かだ。
 しかし、シオランは自殺をしなかった。最後は認知的に問題を抱え、もしかすると自分という意識すら怪しい中で息を引き取ったというから、ある意味で幸せな一生を送ったのだと言えるかもしれない。死にたい、死にたいと言い続けながら長生きをするというような人生であったことになるし、その意味では世に害悪となる言葉を吐き散らして自分はのほほんとしていたと見られても仕方がない部分はあろうかと思う。だから、著者も言っているように、「読者にもぜひ彼の本を読んで喜ぶという、いささか倒錯的な体験をしてほしいと思っている」というあたりが、健全な接し方であるのかもしれない。
 シオランの人となりが最初に長く語られ、いくつかの方向性に分けて彼の思想が紹介される。著者自身が感じ入っているからこそ、熱く語られる。その一つひとつをここで展開しようとは思わない。ただ、社会の中の嘘偽りを見事に暴き出しているという点では、シオランの言っていることはまさに正論である。きれいごとを掲げて人をまるめこもうとしていることに比べれば、シオランが突きつけているぼやきは、真実を教えてくれるということも多々あるわけである。だからこそ、売れた本もあったし、人に知られていたのである。しかし、それが売れ筋かどうかという点になると、長続きはせず、生活は楽ではなかったようだ。厭世観の極致を提言しておきながら、自らは自殺もせず生き続けたということで、またそれを嘆き、本を売ろうとする。なんともいじらしいとも言える。そのことも自覚しており、人生の虚しさを嘆きつつ人生を生き続けているという、矛盾と言えば矛盾したその生き方。しかしそれは、私たちの多くが感じており、またそうやってなんとか生きているということも、確かであるような気がしてくる。それは私自身、よく分かる。
 シオラン自身は、その思想を生きる、あるいは死ぬことはできなかった。敗北である。だが敗北であっていい。私たちが感じるものが嘘偽りではなく、真実の一端を占めているということを確認することで安心できることがあるとすれば、それはシオランのような人がいたお陰であると言えるのではないかと思う。だから、シオラン自身の失敗は、それを後から知る私たちにとっては、大いに助けとなりうるという見方もできる。いや、そのようにしてシオランと出会うことが望ましい。少なくとも著者はそのようにして彼と出会い、彼に助けられているはずだ。
 凡そ、のほほんと明るい希望を思い描いてそれだけで生きていける人は幸せだとは思うけれど、稀であろう。また、世の中に文句ばかり言って自分は何の責任もないというつもりでいる人も他人にとり害悪でしかないだろう。シオランの思想を見ると、たとえば「引きこもり」にある人と重なるところもあろうかと思う。もちろん、画一的にそうだと言っているつもりはないのだが、言いたいことは、恐らく人生や世界を誠実に、真摯に見つめているときに、自分をごまかしたり、何か偽りの笑顔を振りまきながら調子よく生きていこうとか、他人を出し抜いて自分だけ得をしようとか思わないから、引きこもってしまうような場合がありうるだろうし、そのような人にとっては、シオランと同じような視野をもつということも十分ありうることなのではないか、と思うのである。私は決して引きこもっている生活をしてはいないが、もしかすると精神的には十分引きこもっているのかもしれないと感じるからこそ、そのように言わせて戴く。つまり、シオランの言っていることには共感できる、ということである。それは、シオランと意見を同じくする、という意味でもない。だからシオランの出した結論にすべて同調するつもりもない。そしてシオラン自身、その時々によって、出している結論が違うことが多々あるのだ。その迷いすら、少し愛おしく感じるほど、ちょっと傍にいられる、ということも確かなのである。
 ペシミズムはある意味で失敗している。結局生きているとなれば、失敗である。しかし、それはペシミズムを救う光のもとにある失敗であってほしいし、十分そうでありうると思う。気が滅入りそうになる人や、明るい希望に日々生きている人にはお勧めしない。少しばかりひねた人は、実は自分が決してひねていないということを知るチャンスであるかもしれないと思い、ご紹介することにした。




Takapan
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