本

『常識やぶりの天才たちが作った 美術道』

ホンとの本

『常識やぶりの天才たちが作った 美術道』
パピヨン本田
KADOKAWA
\1500+
2023.10.

 ウェブサイトに多くの原稿を配信し、人気を得ている人がたくさんいる。それが好評なとき、書店が動く。本にしてみないか、と。本書の場合、どういう経緯でこうなったかは分からない。私は、ネット抜きに本書と出会ったクチである。
 1ページ漫画として描いているものをトップとして、その後は、楽しくその美術家について説明を加えていく。耳で聞くように分かりやすい文章であるし、重要なところを太字にしているので、目が要点に吸い寄せられていく。
 調子は、おふざけ調に見えないこともない。確かに漫画のギャグはかなりぶっとんでいる。私にはあまりその逆が面白いものとは見えなかったが、その美術家をいま私たちがどのように見ているか、ひとつの視点を与えてくれるように感じた。
 本書は、アーチストを一人ひとり取り上げる。しかも、一定の視野の中で捉えながら進むので、それらのアートの意義をまとめて理解しやすくなっている。その構成力はなかなかのものだ。まだ非常に若い著者であるが、知識は膨大である。まだ熟した知識というふうには思えないが、多くの知識が詰め込まれていることはよく分かる。
 最初の章は、コンセプチュアル・アートである。最初は、マルセル・デュシャン。かの有名な、便器を展示して「泉」と題した作品により、顰蹙を買ったというアーチストである。結局著者は、このデュシャンの衝撃を、本書の最後まで幾度も幾度も読者に伝える。それは、近代哲学を論じる誰もが、デカルトの名を出すようなものなのかもしれない。美の概念を変更するきっかけとなった意味では、確かに大した事実を刻み込んだものである。その「泉」が1917年の作品だというから、すでに一世紀を経てしまった。この百年で、アートは大きく変化したが、その嚆矢としての役割は、確かに認めざるを得ないと言えるだろう。
 以下、ポロック、カプロー、オノ・ヨーコ、ボイス、シカゴといった名が連なり、それぞれの営みを、印象的に紹介し続けて第1章が終わる。次は、ポップ・アートである。これは「アートはみんなのもの!」というサブタイトルのもとに始まり、ウォーホル・草間彌生・パイク・バスキア・シャーマン、クーンズといった名が並ぶ。福岡市美術館にその草間彌生の作品が置かれているため、福岡市民には馴染みがあるところだろう。
 次は日本の美術家。前衛美術と題した。桂ゆき・荒川修作・田中敦子・李禹煥・寺山修司・岡本太郎と並ぶ。日本人には馴染みのある名前も現れるが、それぞれの生い立ちや背景、美術において何を主張し、当時の何と闘ったのか、それはいまどういう意義をもっているのかなど、8頁ほどの中に、コンパクトにまとめられている。この要約能力だけでも、なかなかのものである。
 次はソーシャル・アート。バンクシーはあまりにも有名だろう。エミン、ティラバーニャ、クリストとクロード、ゲリラ・ガールズと並ぶ。最後のものは個人名ではない。マスクを被れば誰でも参加できるという変わり種である。女性を軽んじることへの公然とした抗議運動のようなところもある。芸術が、社会問題にも関わるものである路線を強調している。
 果たして美術とは何か。それは美を扱うと言えるのか。美とは何か。考えてみれば、これが実に難しい。文化や時代によって、美の基準や価値観は大いに異なる。ここには、デュシャン以降の、いわば現代芸術だけが紹介されているので、それまでの美術のことは一切関係なしに切り取られた美術史となっている。しかし、かつての歴史を踏まえての現代芸術であるだろうし、それは、本書でも指摘している部分があるように、商業主義との関係が外せないようなものにもなりつつある。また、舞台芸術や音楽などともコラボしてこそのアートというのも、当然のことのようになっていくようにも思われる。さらに言えば、西欧文明の下敷きに基づくものばかりが、現代芸術となっているかのようにも錯覚させる可能性もあるだろう。
 果たして美は普遍的なのか。古来問われてきたことは、まだもちろん解決されてはいない。豊かな生活を営む者だけが、美などと言っているゆとりがあるのかどうか、そうした社会的な位置づけも、考察されなければなるまい。
 本書はそうした問いをもつ人が、さしあたりこの一世紀の変化を、教科書には普通ないような次元で、目の前に差し出してくれる。その意味では、大いに役立つ本なのではないだろうか。巻末にある、日本語で入手できる参考文献も、ちょっとした紹介として役立ちそうである。専門家でないならば、十分であるだろう。




Takapan
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