本

『ビッグクエスチョンズ 倫理』

ホンとの本

『ビッグクエスチョンズ 倫理』
ジュリアン・バジーニ著
サイモン・ブラックバーン編
山邉昭則・水野みゆき訳
ディスカヴァー・トゥエンティワン
\2100+
2015.3.

 興味深いテーマについて論じていくシリーズの一冊。哲学や数学など多様なニーズに応えるものだが、今回は倫理。
 倫理がけっこう現代は面白い。究極の判断が想定問題として考慮される。制御できなくなった乗物を運転しており、右へ行けば1人殺すことになり、左へ行けば5人殺すことになるのならば、右へ行くのが「正しい」のかどうか、など、架空の状況で議論する。カントでも、友人が逃げ込んできたあと、それを追う人殺しに対して嘘を言うことは道徳的でない、などと書いたものだからけっこう叩かれたのであるが、そもそもこういう場面で正しいとか道徳的だとか言うことそのものにどのような意味があるのか、本当はそこまで議論しなければならない。
 感情や気分で判断するのは、人としてはやむをえないところだ。また、時代的背景や文化的背景も関係する。別の文明のもとでは、許されないこともあるからだ。また、時代的にも、たとえば同性愛問題は、国や宗教的基盤によっても意見は異なるが、死刑に値するというのがかつては一般的だった。それが時代はどうも変わってきた。理解や意識が変わってきたのだ。
 さて、本書は、黄金律の存在を問うことに始まり、実は道徳の客観性の話に戻ってくるという形になっている。テロは正当化できるのか。弱者の救済は必要か。動物の権利は。安楽死は。環境保護派。正しい戦争があるのか。こうした問題に一つひとつ向き合い、ゴールに進むのだ。
 もちろん、これで倫理の問題が片づくわけではない。ある意味で面白いのは、筆者が、自分の考えを出してくることだ。えてして、こういう問題がある、と問題を並べて放置する類書が多い中で、本書は著者はこう思うという点を少なからず提示するのである。こうなると、読者としても、確かにそうだと肯くこともあろうが、そうかな、と疑問が湧いてくることもある。筆者と対決しながら読み進めるのだ。
 ではそうなると、いよいよ本書は一定の結論を目がけて進むものでしかないのだろうか。もう書物の側で、結論が決まっていて、読者に対して、さあどうだ、こういうことなるだろうが、と迫るばかりなのだろうか。私はそうではないと思う。ネタばらしになるかもしれないが、先に、道徳の客観性の話に戻る構成になっていることに触れた。本書は最後に、客観的に一意的に道徳が定められるということは期待できないというひとつの結論を強調する。これは本書の論理であろう。しかし、そこから、読者一人ひとりが、考えて決断していくことになるという宣言をする。誰かが客観的に決めてくれるというものではないから、あなたはどうなのか、問われているのですよ、と呼びかけるのである。
 これは全うな呼びかけである。道徳の客観性に対して意見を異とする読者がいたとしても、自分はどうか、という視点を抜きにしては、道徳も倫理もありえないのだということに気づかされる。私はこの点が、優れていると思う。それはアナーキーな結末なのではない。共通なものはきっとあるという運びでここまで本は流れてきているのだ。ただそれを命題化するというよりも、私たちが生きていくその中で表していくことへ、注意を向けさせてくれているということだ。
 倫理は理論ではない。客観的に、科学や数学のように命題があるわけではない。私たちが決めなければならない。それは、「私(たち)」という主語が関わることを意味する。同じ命題であっても、主語が誰であるかによって、意味が違ってくるからである。「殺人を犯してはいけない」という命題は正しいと思われるかもしれないが、襲われたときに襲ってくる相手に抵抗して殺したらこれは悪なのか、というと、現行法では多くの場合正当防衛という考え方で認められている。誰がそれをするのか、誰が言うのか。倫理は、主体により命題の意義が変わってくる。だからまた、読者一人ひとりが、自分はどうか、問われることになるだろうし、共に考えていかなければならなくなる。
 倫理的思考の冒険を経験するだけでも楽しい。難しい議論はさておき、様々な実例の中で、自分だったらどうするか、ということを考えながら読んでいくだけでも、本書は大きなはたらきをなしたことになるのではないか、と思う。




Takapan
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