本

『美学』

ホンとの本

『美学』
アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン
松尾大訳
講談社学術文庫
\2100+
2016.1.

 文庫だが、索引を含めると850頁を超える厚さ。1987年に玉川大学出版部から出されたものが、講談社学術文庫に収められた。
 カントの『判断力批判』は、この本をベースにしている、とも言われる。もちろんカント哲学はこれとは異なるし、形而上学に対する考えは完全に異なるものとしてカントの批判を浴びているが、カントがここから大きな影響を受けたことは間違いない。特に、構想力(あるいは判断力)という、理性と感性をつなぐ能力については、少なからず本書などにより思索を鍛えられているものと思われる。
 話には聞くが、実際に本を開いたことがなかったために、よいチャンスを得て手に入れた。その分厚さには驚いたが、内容もまた激しかった。思っていた論じ方とはまるで違った。ここにあるのは、ギリシア・ローマ文化をふんだんに撒き散らした、教養の広場であった。美とは何かを突き詰めようとする構築物というよりは、教養に溢れる花園のようであった。
 従って、そのような教養のない私にとっては、これは酷な読書となった。
 しかし、それは私だけではなかったようだ。「学術文庫版訳者あとがき」でいきなり、本書が「晦渋なラテン語ゆえに、公刊時から現在に至るまで、名のみ高く、通読した人が少ない書であり続けている」と書いているのだ。「名のみ高く」というのは、本書がそもそも「美学」という言葉を学問のものとして立てた金字塔であるからであるが、果たして何人の人がこれを読んだことがあるのか、ということである。かくいう私も、その一人であった。が、曲がりなりにも目を通したので、私は今日から、「読んだぞ」とだけは言える立場になった。
 この本を、訳者は30年近く研究しているというから、頭が下がる。そしてこの「あとがき」には、本書が「法廷のイメージ」が関わっているということを記している。訳語も苦労があっただろう。昔の人は、いまのように細分化された学問観をもっていなかった。知識のある者はごく一部のエリートであっただろうし、学問自体も決して分かれてはいなかったと思われる。その中で、ひとつの分野をつくるきっかけになったというのは、ひとつの「こだわり」であったかもしれないし、その後の人たちこそが、これを別物として選り分けたのであるのかもしれない。私は後者だと思っている。
 序論の冒頭で、美学の定義がなされている。「美学(自由な技術の理論、下位認識論、美しく思惟することの技術、理性類似社の技術)は感性的認識の学である。」
 本書は訳者により、丹念に注釈が加えられており、もはやそれなしでは少しも読み進められないようなものなのであるが、この文には殊に長い注釈がついている。この一文に、(1)から(8)まで振り、それぞれについていろいろと解説が加えられているのである。特に最初の「美学」という言葉には、まず注文しなければならない。というのは、これが「哲学文献でこの語が用いられた始まり」であるからだ。但し、これは「美」という私たちのもつイメージとは異なるのだという。いわゆる「知性的なもの」に対する概念としての、「感性的なもの」についての学だというのが、バウムガルテンの捉え方だったからである。そこで「感性学」の方がよいかもしれない、と書かれている。そこで「美学」と訳している「エステティカ」はむしろ「感性学」とするのがよいかもしれない、と自ら書いている。しかし、感性的認識の内で、完全性を問題としている以上、実際的にそれは美なのであるから、「美学」と訳語として用いる、と言っている。
 こうして始まる本書を、少しでも楽しく読むためには、この最初の長い注釈を、それなりに踏まえておかなければならない。認識能力の違いなどを丹念に論じた本書は、なるほどだからこそカントが影響を受けたというのも、納得がいく。しかし、現代においては、こうした分析は参考にはされないのではないか、という気もする。ギリシア・ローマ文化に疎い私のような者にとっては、たいへんな教養書となったのは確かであるが。




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