本

『はぐれくん、おおきなマルにであう』

ホンとの本

『はぐれくん、おおきなマルにであう』
シェル・シルヴァスタイン
村上春樹訳
あすなろ書房
\1500+
2019.11.

 なんといっても『ぼくを探しに』は強烈な印象を与えた。お気楽な線書きのマルの欠けたところに合うかけらを探しにいき、いろいろな出会いをする絵本であった。『おおきな木』のほうが有名だという人もいるかもしれないが、『ビッグ・オーとの出会い』のように、続編まであって、この路線がまたたまらない。シルヴァスタインが1999年に亡くなったとのニュースを聞いたとき、もうこのような作品は出て来ないのかと悲しんだのであったが、その20年後に、出会えるとはうれしい――と思って見ると、これは『ビッグ・オーとの出会い』ではないか。かつてのこの本は、倉橋由美子さんの訳であった。今回、訳者はあの村上春樹である。あの「かけら」くんは、今回「はぐれくん」として姿を現したのであった。
 これは村上春樹の感性で、そう訳したのだという。自分はただの欠片である、という意識も確かに寂しい。だが、自分ははぐれてしまったのだ、という思いは、もっと寂しいような気がする。自分は孤独であるが、元々は何かに属していた、という信頼が欠片のほうにはあったかもしれないが、はぐれてしまったとなると、もう会えないかもしれない気持ちがどこかにあるようにも思う。本当に何かがあったのかどうかさえ確信がもてない、そんな自分に対する不安を感じさせる名前ではないだろうか。自分を探しているようでもあり、パートナーを必要としている思いのほうが分かりやすいだろうか。ひとは一人では生きていけないという。しかし、ベストなパートナーに出会えるかどうかは分からない時代である。それは、シルヴァスタインが書いていたころも、アメリカではすでにそうした動きはあったに違いないだろうが、いまの日本でこの点を考えると、喫緊の課題であるように思えてくること必至である。
 だが、もちろんそのような意味づけをしながら読む必要はないし、このような捉え方が適切であるのかどうかも分からない。そんなことはない、と一刀両断にする批評家もいると思うし、その点では、訳者が「あとがき」に書いてあるような理解を嫌う人もいることであろう。子どもはどんなふうにこれを読むか、もはや大人の私には分からないと言わなければならないが、ぱらぱらめくるのがもったいないほどに、しみじみとはぐれくんの旅に寄り添うのがいいような気がしてならない。そして、どこかでほろりと涙するような場面もありうるだろう。
 はぐれくんが出会うという「おおきなマル」は、もちろん原文では「ビッグ・オー」である。マルだから「オー(O)」であるというのもその通りなのだろうが、私はどうしてそれが「O」であるのかについては、感じたことがある。数学の座標で原点をOという。これはOriginの頭文字である。このことについて指摘している人はネットの中でも出会えなかったが、自分の原点に立つ、あるいは原点を知るというあたりに理解を置いて、希望をもちたいと思うのだ。
 これを「本来性」などと呼ぶと、ハイデガーのように聞こえるかもしれない。それはまた、どなたでもご自由に、思いめぐらせて戴きたい。




Takapan
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