本

『聖書学と信仰者』

ホンとの本

『聖書学と信仰者』
マーク・ツヴィ・ブレットラー:ダニエル・J・ハリントンS.J.:ピーター・エンス
魯恩碩訳
新教出版社
\2700+
2024.10.

 興味深いテーマだった。それはサブタイトルを見たときにすぐに感じた。「信仰者は批判的聖書学とどう向き合うべきか」というものだ。ここには、信仰者がまず前提されている。キリスト教信仰をもつ人だ。それは、聖書を信じる、ということとしてよいだろう。聖書を読んで、信じている。それがキリスト者だということになるが、近代以降、その聖書についての研究が深まってきた。とくに、文献的にそれを扱うとなると、歴史的に、あるいは理性的に、とても信じられないということが記されていることに気がついてくる。確かに、奇蹟を信じる、それはそれでいい。しかし、聖書に書いてあることが別の箇所で矛盾するようなことになると、辻褄を合わせるのは非常に難しくなる。また、たとえばパウロが書いた、と記されている書簡が、研究によってどうしてもパウロの時代のものとは考えられない、などと発表されてくると、それをどう表に出せばよいのか、という問題が起こる。そうなると、いったい信仰とは何なのか、ということになる。
 そこに書かれていることは本当ではない、と突きつけられているのだ。こうした問題が起こるのは、キリスト教が、人間の歴史の中に神が介入した、という点に信仰の基盤を置いているからだ。最初から架空の仏を想定して話をつくる仏教だと、そうしてジレンマは起こらない。完全に神話だと定めている神道もそうであろう。だが、イエス・キリストは地上に来た。それを証言する聖書に科学的なアプローチで疑念が掛かり、しかも容易にされが否定されないとなると、信仰が否定されたも同然ということになるのである。
 科学のメスが入り込んだ現代だからこそ、この問題が信仰の前に立ちはだかることになる。確かにそのために、千年前に比べると、信仰のあり方が全く変わってしまった、とも言える。もう信じることなどできないのか。否、そんなことはない。いま以てキリスト教徒は、世界最大の宗教人数であるようだ。それは科学を無視しているのだろうか。あるいは、科学のどこを認め、どこを信仰の問題としているのであろうか。
 はっきり言って、それは一人ひとり違うだろう。だが、カトリックのように教義が組織的に定められている場合には、統一見解というものがあるはずである。とは言いつつも、やはり個人差はあるに違いない。それはプロテスタント側でもそうであるが、こちらは千差万別というくらいに捉え方があるに違いない。
 本書は、カトリック、プロテスタントからの一人の代表者が、さしあたり代表見解を発表する。そのとき、その側の概ねの傾向や一定の見解を明らかにすることになる。決して、ただ個人の信仰でどう捉えるか、ということではない。そのグループの代表という立場から、神学を踏まえた形で、この問題に説明を施すことになる。
 本書の特徴は、これにユダヤ教が加わるという点がまず一つである。もちろんユダヤ教としては、キリスト教側が称する「旧約聖書」に於ける同様の視点が問われていることになるのだが、こうした場にある故に、キリスト教もそれを用いる限り、この議論を共にすることができると言えるだろう。
 こうして、本書は3人のシンポジウムでの発表が収められている。さらに、この2010年のシンポジウムに於いては、1人の講演に対して、他の2人がそれぞれの立場から「応答」を発しており、それもまたここに同時に掲載されている。これもまた画期的なものである。単にある立場からの見解や現状を報告して終わり、ではなく、他の視点からその捉え方をどう見るか、ということについても、読者は知ることができるのである。
 すると、聖書をどう位置づけるか、どのように解釈するのか、ということについて、それぞれの特徴が明確になってくる。たとえばユダヤ教の場合には、どうやらキリスト教側、特にプロテスタントのような解釈に於ける危機感は殆ど無用なようなのである。聖書そのものが完璧なものである、というような前提がないというのである。「マソラのテキストの奴隷になってはいけない」(p83)とまで言っている。
 ユダヤ教の視点は、なるほど面白い。私が特に心に残ったのは、「批評の実践」として挙げられた「詩編114編のユダヤ的な歴史批判的解釈」のコーナーである。そこには、明らかにダビデ時代ではなく後につくられたものであること、また、イスラエルが生まれたのは出エジプトのときであること、そうしたことを認めざるを得ないしるしがあるというのである。
 ここで、それぞれの立場の見解を紹介するつもりはない。お読みになって戴きたいだけだ。A5版横書きで、学術的な注釈も含む、充実した内容であるとはいえ、200頁くらいの本であり、その割には決して安い本ではない。だが、私から見れば無駄がなく、実に濃密な見解とあり方がよく紹介されており、非常に勉強になる。また、他の立場からの「応答」も、見る立場によってどう捉えられるか、が垣間見えて面白い。もちろん、それは批判をし合う場面ではない。共通の問題を控え、互いに支え合い、高め合うような親和的な気持ちがよく伝わってくる。だから、繰り返すが、非常に良い学びの機会となる。私も、一度読んだだけではもったいないので、時間をかけてノートを取ろうか、と考えている。
 内容は紹介したくない旨を語ったが、それでは本書の魅力が少しも伝わらないかもしれない。ネタバレにもなりかねないが、「訳者あとがき」にある最も簡潔なまとめだけを、ここに掲げておくことにしよう。以下、そのまとめである。
 私見によれば、全体的にユダヤ人であるブレットラーは信仰と歴史批評学の関係を二つの異なる世界として捉える傾向があるのに対して、カトリックであるハリントンは信仰が優位に置かれている枠組みの中で、その信仰を手伝い助けるツールとして歴史批評学を評価している。プロテスタントであるエンスの立場はそれとは異なり、歴史批評学に少し優位の立場を与え、その歴史批評学の見識によって変革された信仰こそが成熟したものであると唱える。(p215)




Takapan
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