本

『聖書的説教とは?』

ホンとの本

『聖書的説教とは?』
渡辺善太
日本基督教団出版局
\590
1968.10.

 加藤常昭先生のお薦めであった。探すと入手可能だった。半世紀以上前の本である。届いた本は日焼けしていたが、線引きなどなく、気持ちよく読めた。
 渡辺善太(ぜんだ)は、牧師も務めたことがあるが、印象としては説教者である。神学校で教えることも長かったと思う。とにかく「説教」について極めようと努めた方である。本書には、その説教への熱い思いがふんだんにこめられている。
 自分の言いたいことを、従来の用語の中に収めてしまうことができないらしく、自分なりに名づけて、それを説明するという形が多いように見受けられた。この「聖書的説教」もそうである。このいかにも一般的な名称も、自身のこめた思いや祈り、願いがこもった呼び方であるに違いない。
 説教は、その説教者という存在を抜きにしては語れないものがあるという。説教者とは誰なのか、という問いが、説教を問う問いと同時に成立しなければならない。
 礼拝説教ももちろんだが、伝道説教もきっと頭に置いていたことだろう。同じように説教に対して生涯を献げるかのように語り続け、説教者への教育を重く見た、19世紀イギリスの天才スポルジョンは、実に様々な角度から説教を論じた。服装や声なども重要なポイントだとした。しかしそれは分厚い説教論の中だから触れられたことかもしれない。本書はそれほど大きな本ではない。著者は、そうしたものは捨象して、説教の中にそのものに焦点を当てる。本書はノウハウのようなものを求める人にはきついだろう。もっと聖書を探究する信仰や霊的なものに的を向けたい人こそ、味わうことができるものだろうと思う。
 それでまず「聖書的説教とは?」という項目からいきなり始まってしまうのも、著者自身の考えであると断っているので、悪いことではもちろんない。ただ、いきなり書名の意味を明かしてしまうようなことをするのは、なかなかの勇気だと思った。つまりそれは、徹頭徹尾「聖書に始まり、聖書により、聖書に終わる」説教であるのだという(24頁)。しかし、それがどんな意味であるのか、は読者一人ひとりにとっても異なるだろう。それを説き明かしていくのが、本書だということになるだろう。
 著者の問うその意義を掲げつつ、聖書を語るとはどのようなことであるのか、その冒険の旅に出るのが本書である。その一つひとつをここで説明することは控えるが、凡そのその旅路を示すことはしてもよいだろう。
 まずは「説教」にどのようなスタイルがあるかの分類を明確にしておく。たとえば政治的であるとか、文学的であるとか、神学的であるとかいう類いである。また、心情を重んじるスタイルや、歴史を中心に展開するものや、思想という軸をもつものなども考えられることが紹介される。そして説教の構成についても同様に、預言を重視することや契約を中心に置くことや、予型というものを指摘することなど、様々なケースがあることを示す。この辺りは、やはり神学校で教えるときのやり方ではないかと私は感ずる。
 そのように見ていくと、私が私なりに思い描いている「説教」というものが、必ずしも世界にある「説教」のすべてであるのではないことに気づかされる。やはり自身の理解があり、理想というものもある。自分が善かれと思って語るタイプとは、別の形の説教も世の中にはあるものだと分かるのである。
 語る者が聖書を読んで解釈する過程も重要である。聖書は「証言」に溢れている、と見ることもできるだろう。信仰を強調すべきだと受け止めてもよいし、聖霊の働きに注目することももちろん時に必要であろう。こうした種類を見せられるのは、確かに私にとっても良い学びとなる。
 また、ひとつの聖句に基づく説教もあれば、一定の段落のようなまとまりから語る説教もある。それどころか、聖書を大きく全体として捉えて聖書全体を視野に置くことをモットーとする説教もあるであろう。それぞれの視野では、それぞれに良いところもあれば、気をつけなければならない欠点もある。聖書全体を視野に置いたとしても、聖書全体がそれぞれ矛盾に満ちている表現もあるだろうし、小さな聖句に基づくときには、聖書全体の理解を外した、偏った理解をしてしまう可能性もある。
 だから、いろいろなケースを脳裏に置いておきたいのは確かである。どこか理性的に、こういう捉え方にはまた注意すべきことがあるのだ、という理解を踏まえて、暴走しないようにしたいということだ。
 こうして目次を辿ってくると、ここだけをご覧の方は、不思議に思われることがあるかもしれない。一体「救い」をもたらすという説教の関心はどうなったのか。説教はそんなに理性的に語るべきものなのか。たとえば悪霊を追い出すというイエスの業は、そこには関与することはないのか。多分、こうした問いは、著者の中に用意されていると思う。その極意は、やはり著者自身の口からお聞きになるのがよいだろうと思う。ただ、戒めとすべき一言だけは、引用をお許し戴こうかと思う。殆ど終わりがけの293頁に、さらりと出てくる次の言葉である。
 個人的聖書信仰のない説教者にとっては、「聖書的」という用語ほど空虚なものはない。
 自由主義神学が幅を利かせようが、文献として聖書が切り刻まれようが、聖書は人々に信仰を与えてきた。信仰と希望と愛とを、現実に与えてきた。それはまた、「救い」とも呼ばれた。ここで指摘された対象は、「救いの体験のない説教者」と言ってもよいであろう。本書のような「聖書的説教」を問う営みは、まず説教者がその救いの体験をもってなんぼのものなのである。そうすると、本書の最初にあった、説教者を問うという事柄が、まさにひとつの結論そのものであった、という風景も見えてくることになる。そう、説教者は、問われなければならない。説教者を問う教会でなければならないのである。




Takapan
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