本

『「便利」は人を不幸にする』

ホンとの本

『「便利」は人を不幸にする』
佐倉統
新潮選書
\1155
2013.5.

 2011年3月11日に発生した地震は、やがて東日本大震災という名前を与えられ、人を悲しみに追い込んだばかりか、日本という国のシステムに大きな影響を与えた。文明論のようなこの本の観点だが、この震災の前に欠かれた部分をまず掲げ、それから、震災を経て重く告げられた天の声であるかのような自覚の中で、日本のあり方を指摘する。
 それはまず、人間の欲望というものについてから問いかけられる。「便利」というものを肯定するにしても、人間の欲望は、「さらに便利」なものを要求する。この要求があるからこそ、文明の発展もあるし、進歩もあるわけで、欲望を否定するのもどうかしているが、しかし、欲望には際限がないことも確かである。こういう視点を、筆者は有していた。
 それが、3月11日のあの日から、そういう評論では済まされなくなることを覚えた。私はここに、著者の誠実さを覚える。というのは、自分が加害者である、という意識を確かにもっているからである。地震と津波そのものを止める力は人間にはないが、原子力発電所の事故は人間は止める自由と力とがあったのだ。たしかに東電にはミスがあった。行政にもあった。しかし、それを騒ぎ立てて追及するべきなのか。そのことで、ミスが許されないという空気を東電に作らせ、あの隠蔽体質をもたらしたという視点を失ってはならないというのだ。原発を危険だと反対運動をする人の中には、いまやそれが正義であるが故に、という場合があるのではないか。いいだけ自分が電力を求め消費し、快適な生活を送ってきた者が、突然原発をなぜ作った、などと声を挙げることを、筆者はやりたくないのだ。
 欲望の問題に端を発するが、そうした人間の業のようなものを非難しようなどという意図は筆者にはない。議論の空間というもののあり方を模索している。というのは、筆者自身、この原子力政策について関わった経験があるからだ。危険性について指摘することが無視されるような体質があった。いや危険性の調査をすること自体が認められなかった。ミスというものは許されないのだから、調査をするとなると、まるで危険性があるかのように思われるではないか、というのだ。これが如何に馬鹿げているかは、今の私たちには分かる。が、それがまかり通る議論の場が当時の常識だった。「どうかしている」と私たちが批判するのは易しい。だが、いま私たちは同じことをしていないだろうか。いまのあの党には逆らえないとか、強弁を張る政治家をもてはやすとか。そのくせ後になってその政治の故に問題が起こった時、実はあのとき俺はおかしいと思ったんだ、などと嘯く顔が、容易に想像できないだろうか。同じである。原発についても、「あのとき」危険だとして声を出すべきだったのだ。「あのとき」に、まあ大丈夫だろう、と思っていた者が、いまになって「だから原発は危険だと分かっていた」「東電はけしからん」と正義ぶるようなあり方では、問題はなにも改善しないし、なによりもまた被害者たちを助けることにもならないのである。
 筆者は、様々な観点から提案をする。自らに痛みをもちつつ出すその提言には、重さというものがある。そのひとつひとつが、すべて採用されるべきであるのか、それはまた私たちが論議するように仕向けられている。私たちが、その議論の先を続けなければならない。豊かさとは何かを問い続け、便利がすべて善であるという命題すら疑ってかからなければならない。ムラ社会が実のところ残存しており、発言が自由でもなく議論というものが成立しないようなあり方では、科学とその利用については十分でないというのだ。いや、科学に限らない。日本の組織ないし社会は、過去のことを学んで次に活かすということにおいて、決定的な欠陥をもつという指摘が鮮やかである。長いが引用させて戴く。
「環境が変化し、評価関数そのものが変わってしまったときに、新しい環境に適応するための変革が、とても苦手である。その理由のひとつは、異論への許容度が低いということにあるのではないかと思っている。3・11原発事故が起こる以前に、津波による被害や電源喪失の可能性などが指摘されていたことは、今や良く知られている。事前リスクの評価は、しかし、難しい。すべてのリスクを考慮することはできないから、どこかで線を引いて、対応を考えるか考えないかの範囲を設定しなければならない(いわゆる「裾切り」)。その線引きが妥当であったかどうかの判断は、結果論なら誰でも言えるが、事前に適切に下すのは、とてつもなく難しいことである。事が起こると、「だから前から言っていたじゃないか!」と声高に自説の正しさを主張する人がいるが、これは生産的ではない。考えるべきは、「なぜその人の意見が事前には反映されなかったか」であり、以後、「そのような意見も適切に反映される状態を作り出すためにはどうすれば良いか」である。」(150-151頁)
 本書は、次のようにして結ばれる。「主流派の多数意見と異なる見解を、少数意見としてどのように常駐させていくか。これが日本社会の今後の課題である。それと合わせて、日本が獲得した科学技術のパッケージ化能力を世界に向けて流布させていくことは、日本だけができる世界への貢献である。」(168頁)
 科学技術を褒め称える一方、科学技術を目の敵にする。その都度、私たちは自分を正義にしたいと思う欲望に従って動いているばかりだ。しかし、自分が正義だとしてそのように告げている時、必ず、別の意見がある。自分が正義の権化であるその瞬間の私たちは、その正義以外の意見は消滅すべきものだと見なす。まるで歴史の編纂である。時の権力が、過去の権力を否定し自らを正当化するというのが、かつての歴史書の編纂であったからだ。これの繰り返しから、この国が如何に脱却するか。筆者は、必ずしも楽観はしていないが、眼差しを向けるべき方角を、私たちに促す。この体質の元では、幸福にはなれない、ということは確実だと理解してのことである。
 ではどうすればよいのか。筆者がこの本で、明解な答えを与えていないからと言って、この本の価値を下げることはないだろう。提示された問題を、どう受け止めて、どう考察し、反省し、どう行動していくかということは、この国に生きる私たち一人一人に委ねられていることだからである。だからたとえば、政治家が、あるひとつの考えだけですべてが幸福になるかのように言い放つそのレトリックから、いいかげん私たちも抜け出さなければならないはずである。
 少し言い回しが難しいところもあるかもしれないが、概ね読みやすい本だと言える。私も電車二往復で読了できた。考えるために、こういう誠実な考察の本を、私たちは手にしたいものだと思う。




Takapan
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