本

『カイン』

ホンとの本

『カイン』
中島義道
新潮文庫
\430+
2005.8.

 戦う哲学者とも呼ばれ、世に対する不満たらたらを吠え、それを本でがんがん叫ぶから、著述業としては成功したうちだろうと思う。私はその奔放な生き方より以前に、カント学者として触れていたし、それでもなお、その非社交的社交性にも、困ったものだとは思いながらも、それはそうだと思っていた。
 しかしまた、著者が、子どもの頃から死を恐れ、どうせ死ぬのだという恐怖と、それに加えて、それでもなお、というような考え方が、私にとり一番親しみやすかった理由ではないか、とも思う。私はとても中島氏のような生き方はできない。だが、私が私に正直に生きたとすると、この人にずいぶんと近くなるだろうと思う。非常に親和性を覚えるし、考えていること、言っていることが、自分のことにように分かることが多いのだ。
 そこでまた見かけたこの文庫、サブタイトルに、自分の「弱さ」に悩むきみへ、とあり、大学生のT君へ向けての手紙を、4月から12月まで並べた、という体裁になっている。これはもしかすると大学生というのはカムフラージュであり、中島氏自身のことを描いているのでは、と読み始めて考えていた。それくらい、このT君の考えは、中島氏にこそ助けを求めるに相応しいような思想性を感じるからだ。
 T君は、彼女を自死で失った。いや、彼女と呼んでよいかどうか分からないような存在だったのだが、危ない精神状態だった彼女がある意味で助けを求めてきたようなときに、反応できなかったところ、その時彼女は自ら命を絶ったのだ。これはT君にも応えた。自分の生きる目的も分からないし、罪責感もひとしおである。自分の中にあった哲学への興味から中島氏とコンタクトをとったのだが、中島氏も、このT君の危険性はよく分かっている。だから、T君も自死に至らないか用心しながらも、生きろというメッセージを、この人なりに送り続ける。
 いい子になる必要はない。悪をなせ。ひとに迷惑をかけろこう勧める理由は、著者自身の生い立ちが、このT君と重なるところがあるからであり、自身はもっと徹底した良い子であったからだ。中島氏は自分の親との関係について赤裸々に告白する。親は自分をなんでも肯定し、大切に扱ってきた。だがやがて彼は知る。自分は良い子を演じていたということに。そこから親への復讐を始める。
 これを破天荒と評してよいのかさえ分からない。自分に正直に生きる者の、ひとつの徹底的な世界ではあるだろう。それはやはりカントの、法則重視の哲学とつながるものがある。
 どうして哲学をしたのか、世の中に対してどんなふうに怒ってきたのか、そんな著者自身のことがずいぶん多く語られている。だからこの本は、全部自作自演ではないだろうかと感じたのである。しかし「あとがきに代えて」を見ると、このT君はやはり実在の人物であるようだ。
 問題は、タイトルの「カイン」である。もちろん旧約聖書創世記の、最初の殺人者であるカインを指していることは明白だ。そして本書の書簡の中でもそのことをきっちり説明する。また、最後まで、ことあるごとにこの「カイン」が登場する。そして何度も突きつけるのだ。「君はカインだ」と。
 この意味を残らず暴露する勇気は私にはない。ただ、カインは人類初の殺人事件の犯人であるのだが、神に殺されはしないことには触れておく。逃げ延びるどころか、他の人間から殺されないようにある種守るというのである。つまり、ともかく「生きる」ことがミッションとなったのだ。
 地上をさまよい、殺されないしるしをもつカインと同じように、共同体になじめず、殺されもせず、自ら死ぬこともできず、孤独を生き抜く者、そうした者として、君は生きるのだ、と何度も繰り返す。もしかするとこれですべて意味を暴露してしまったことになったかもしれないが、本書を熱く読めば、この程度ではないことにきっと気づくだろう。
 そうして君は生きていくのだ。中島氏は、良い子で親の後継ぎを考えていたT君に、自らの人生を生きるように、自身の生い立ちをばらしながら伝え続ける。T君は哲学を学び直すなどと言う。それこそが自分が考えていきたいことだから、と。しかし、後半でその様子が変わってくる。さて、これに中島氏は怒るのか、あるいは失望するのか。この辺りだけは隠していても構わないだろう。
 ずいぶんとひねた大人であるように見えるだろう。凡そ他では聞かないような暴力的な言葉が次々と飛んでくる。そんな人生論はないだろう、とも思える。しかし、私自身もその「良い子」であった一人であるという点を除いてもなお、著者の考えは、少なくとも理解できる。ただ私は、その先にキリストという道があったので、中島氏とはまた違った地平を知っている、という辺りから、同調はできないというのは本当だ。
 しかしともかく、こんな人生論はほかにはない。ユニークである。しかもカントの哲学用語などは使わずして、カントの哲学を踏まえていることをちゃんと伝えているし、カントなんか知らない人にも言おうとしていることは適切に伝えていると思える。なんとも言えないユニークな面白さだとでもしておこうか。真摯に悩んでいるT君には失礼かもしれないが。
 だから、巻末で作家の山田詠美が触れているように、おもしろい本として友人と期せずしてこの本を一致して挙げたのも、分かるような気がする。いったいどこに落ち着くのか、読んでいて分からない。その意味ではミステリーである。しかも、恐ろしく反抗的で突っ張ったように見える大人の生き方と思想が、ひとときも絶えることなく続いて流れていく。まさにおもしろいという言葉しか見つからないのも尤もである。
 ところが私は、キリスト者として、作家とは違う観点から、本書についての別の視点をもった。どうして「カイン」なのか。象徴的であるからだろうか。だがどうして聖書なのだろうか。しかも、大学時代に引きこもっていた時代に、ヨブ記を繰り返し読んだということも打ち明け、引用もする。読んでいたのだ。聖書だ。どうして聖書なのだろうか。
 死ぬな。生きろ。自殺はいけない。この切実な祈りのようにすら感じられるものが、どうしても底流にあるように私には思えて仕方がないのだ。それは著者からすれば、Neinということなのだろう。しかし、だったらどうして、著者の人生を暴露し、親への復讐まで告白し、反社会的なことを勧めもするし、それでいて、生きるという最も根本的なところを一冊の中に貫かせている、おそらく著者にとり大きな意味をもつであろうこの本のタイトルが聖書の人物であり、その人物の名をシンプルに置いただけであったのだろうか。本書のテーマでもあるカインは、「カインの末裔」をも思い起こさせるが、そういうことなのだろうか。ひとはこのカインの運命を背負っている。聖書からそのメッセージを受ける人は多い。罪の中を、のたうちまわりながらも、生きなければならないことが、まるで罰のようにすら思えてくる。そう、そのように生きるしかないのだ。死ぬな。生きろ。カインのもつ罪性と、カインの如く生きることの意味とを、人間の本質的な部分として見出したのに違いないし、著者自身もまた、自分をそういうところに見ていたことも確かであろう。
 カインという深い問題を背負うキャラクターを出してこなければ、解決どころか問題にすらならなかったかもしれないことを、本書は提示できた。カインは、神なしには成り立たないキャラクターである。本書には、隠れた存在としての神がいる。そして、神を信頼しなくてどこまで人間が生きられるというのか、その限界を示そうとしているようにも見えてくる。恰もカントが、認識における理性の働きに限界を置いたかのように。




Takapan
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