本

『あわれみあるかたと、あわれな女』

ホンとの本

『あわれみあるかたと、あわれな女』
教皇フランシスコ
カトリック中央協議会
\125+
2017.2.

 カトリックの教えを奉じているわけではないが、同じキリスト教である。教えられることは多々ある。教皇のメッセージは、かつて歴史の中であったほどの全能性は持たないかもしれないが、それだけの人物の言葉である、味わいがある。学ばないのはもったいない。
 このように、薄い冊子にそのメッセージがこめられているものは、もっと入手しやすければ、多くの人の手に届くのではないかと思われる。尤も、こうした文書は、インターネットでカトリック本部を開けばいくらでも現れる。そうした機会を利用して、プロテスタント信徒の方々も、機会があれば覗いてみたらよいと思う。
 半世紀前の第二バチカン公会議では、大きく方針が変わった。ほんとうに、それまでのカトリックの考えを全く変えたと言っても過言ではない。しかしそれをも知らずに、いまなお、カトリックは云々と百年前のような印象で語る人がいるのは残念だ。
 フランシスコ会訳の聖書が新たにまとまって頒布されているが、その先進性には驚くばかりである。そうした方針にて進んでいるカトリックの中で、この「使徒的書簡」と称された教皇フランシスコのメッセージを読ませて戴いた。
 これは、ヨハネ伝の、姦淫の女の場面である。ここは、聖書の最初の段階ではなかったのではないかという捉え方がいまは常識となっている。しかし、だから無価値なのだろうか。それはまた別である。ここから、どれほど豊かな精神性を、また信仰を、受け取ることができるか計り知れない。
 神のいつくしみ、そして人の惨めさ。それらがここに究め尽くされていると読める。いつくしみというキーワードをカトリックが表に掲げたとき、この聖書箇所は、重大な象徴となった。教皇は、聖書のあらゆる箇所からの引用を惜しまず、ここから聞こえてくる神のメッセージを読者に届ける。その中で、神のことばを聞き、説教することの大切さにも触れており、これも聖体拝領中心かと思われていたカトリックとはもう違うことの現れであろうか。聖書への傾きを強く訴える場面もあり、あるいはそれは、ルターの宗教改革から500年を記念するこの年への思いであるのかもしれないが、それは私たち信徒の生活の一つひとつのことに結びついていかなければならないことを忘れはしない。家庭生活の祝福また死への旅立ち、どこにあっても、聖書の言葉が命へとつながる。
 もちろん、これらはカトリックの秘跡を辿っているのだとは思うが、聖書や儀式にあることを超え出て行く視点があるところが頼もしい。それは、いま聖書に書かれているのではない神の働きが、いま生きて活動しているキリスト者である私たちを通じて、新たに拓かれていき、表されていくのだという力強い励ましである。この世界には、解決されていない多くの問題がある。神のあわれみを私たちもまた他者と連帯しつつ保ち、活かしていくことはできないだろうか。この社会の中で、私たちには見なければならないものがあり、なすべきことがあるというわけだ。これを教皇は「いつくしみの文化」と呼んでいる。もはや中央部のかけ声に必ず合わせるという態度でなくてもよくなったというカトリックの中で、絶対の声としてでなく、尊敬すべき声として教皇の語る思想を味わうことは、むしろ私たちの行動を促すものとなるのかもしれない。キリストの言葉を知るために役立つのなら、もっとこうした機会を用いたいと思うものである。




Takapan
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