本

『学校の「当たり前」をやめた。』

ホンとの本

『学校の「当たり前」をやめた。』
工藤勇一
時事通信社
\1800+
2018.12.

 サブタイトルがタイトルの一部のように書かれていて、「生徒も教師も変わる! 公立名門中学校長の改革」とあり、これが内容を最も的確にまとめたものだと言えそうだ。さらに表紙の下半分に、「宿題は必要ない。クラス担任は廃止。中間・期末テストも廃止。」とあり、これが具体的な事態ということになる。国語の答案としてはこうなりそうなところだ。
 それにしても、これがとてつもなく異常なことのように見えることは、中学校というものを少しでも知っている方には驚きだとしか言えないだろう。私も驚いた。
 中学を大きく変えようとしている校長自らが語るその変革の内実。麹町中学校というと、東京都千代田区立ですが、特殊な学校である。東大へ合格者を多く出す日比谷高校に毎年50人以上も進学させる中学だというのだ。予算も十分もらい、私立と見紛う施設がいろいろあるとも書かれている。その麹町中学校に2014年に赴任した校長は、民間から来たのかと問われるほどに(そしてそこにこそ問題を提起しているのだが)、改革を行った。それが表紙にあった、定期テストや宿題をなくしたことや担任制度を崩したことである。服装頭髪指導すら行わないという。このように、校則についても一から見直していろいろ縛りをなくしていったのである。
 もちろん、改革の提言は、たちまち諸手をあげて受け容れられたというわけではない。しかし、かつて山形で荒れた中学(これは本の最後のほうで書かれており、開いた口がふさがらないほど酷い状態だったことが分かる)を立て直し、長い教員生活を経て培った考えや信念から、学校で「当たり前」とされてきたことについて、見直しを図ったのだった。
 校長は、初の著作となるこの本で多くの実例や経過を示してくれている。その一つひとつに驚きを禁じ得ないのであるが、要は、次の考えに基づいていると言える。
 ・目的と手段を取り違えない
 ・上位目標を忘れない
 ・自律のための教育を大切にする
とくに、最初のものが大きな力であるように見える。第一の目的を確認し、その目的のための手段を目的化しない、という考え方を言っているだけの本だと言っても過言ではない。いや、それは至極尤もなことである。けれども、なかなか私たちの社会ではできることではなさそうである。目的のための目的とでも言わんばかりに、単なる手段が、いつしか理由知らずの「しきたり」「掟」となっていることの多い、組織たるものに、私たちは慣れきっている。以前何らかの理由で決めたルールが、その後その根拠も分からないままに、周囲の状況が変化してしまったにも拘わらず、なんとなく残り、前任者の遺したものを変えるに忍びないのか、ひたすら受け継ぎまたその次に渡していくということを繰り返してきた歴史が、私たちの身の回りにあるのではないか。私はごろごろしていると思う。
 私がこの場で申し上げたいのは、教会のことである。教会もまた地上で現実に組織を形成している。あるのだ。いえ、伝統を重んじる教会だからこそ、世間よりもよほど多いのだ。どうしてそうなのか知れないままに、なんとなく昔ながらに続けていることが。もちろん、なんだかんだと理由は説明する人がいる。その理由が聖書的であるとか信仰的であるとかいう色に一度塗られると、牧師なり長老なりの権威者が、それを変えることに著しい抵抗を示す。あるいはまた、信徒も、自分が馴染んできたものを変えることになかなか賛意を示さない。教会では、発言内容でなく、発言者が事を決めがちであるのだ。
 また、世間で価値が転換されてきた問題についていち早く飛びつく場合もある。LGBTの権利を守ろうなどというプロテスタント教会がいま多くなったが、かつて違法とし死刑まで行っていたのは間違いなくキリスト教だった。とくにプロテスタントは基本的に保守的であった。いつしかずっと昔から教会はLGBTの味方、正義の味方だというような顔をして声を挙げるようになっていやしないだろうか。もし味方をしたいなら、私たちは、むしろ謝らなければならない立場であって、まず悔い改めなければならないのではないか。かつて戦争協力に関する責任を戦後も回避していた教会のその姿勢は、何も変わっていないように見受けられると思う。それは私の偏見だろうか。私はそのプロテスタントに属する一人である。
 差別の問題には、自分が差別していることに気づきにくいという根本問題がある。たとえいま、LGBTを支援すると口にしている教会であっても、自分たちの「当たり前」に固執している可能性があるのではないだろうか。いとも簡単に善人面をして、「弱い人に寄り添います」などと発言して、よけいに苦しめているということはないか。欺瞞に陥っていないと言えるのだろうか。そんなに簡単に「寄り添う」ことなど、できるはずがないのではないか。
 学校の話からずいぶん外れてしまったので戻ることにしたい。もちろん、伝統というものを軽視するつもりは私にはない。やはり理由や背景があって守るべきものというものもあるし、教会ならば聖書解釈の問題として慎重な検討を要することもたくさんあるはずだ。でも、よく見回せば、そして問い直せば、理由の分からないもの、また変えてしかるべきことが実はたくさんあるかもしれない。そしてその多くのことについて、手段が目的化しているのではないかという目で見つめると、案外多く当てはまるのではないかという気がしてならないのである。
 最後に2箇所だけ、本書から短く引用したい。
 変革を拒んでいるのは、「法律」「制度」よりも「人」だと私は考えています。(196頁)
 個人に自己犠牲を求め、個性を認めないような組織は、本質的に強くなれないと思います。(43頁)




Takapan
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