本

『ある男』

ホンとの本

『ある男』
平野啓一郎
文春文庫
\820+
2021.9.

 文庫になる前は、2018年の単行本だった。文庫になり手に取りやすくなったが中古書店では、単行本も文庫本も、同じ値段で売っている。
 それはさておき、『マチネの終わりに』の次の作品だというので期待がかかるが、先の恋愛心とはまた違う、アイデンティティを探るような作品となった。
 ただのストーリーを描いているのではない。そこには、社会問題がきっと絡む。平野啓一郎が近年大きなテーマとして懐いている、死刑廃止論が取り入れられている。それほどの必然性がない場面で、この死刑廃止論を主張する人物が演説めいた発言をする場面があるのである。もちろん、そこだけ突飛なことを言わせているのではないにしても、必然性があるかどうかと問われれば、あまり感じられないような気がした。
 それでいて、自己とは何か、ここにひとつの問いかけがなされる。「ある男」というのは、宮崎の片田舎に訪れた風来坊のような男のことである。そう言いながら結婚して子どももつくるのだが、就いていた林業での事故で数年後に死んでしまう。遺された妻は、一応話に聞いていた男の身内に知らせる。群馬から来たその男の兄は、死んだその男は自分の弟とは似ても似つかぬ他人である、と言い始める。
 その妻は、以前離婚調停のときに依頼した弁護士の城戸にこの件を知らせる。城戸はおかしな話だと思いつつも宮崎へ来て、この一件に疑惑を覚える。以後、城戸がこの物語のほぼ語り手となっていく。
 誰かがその夫になりすましていたというのか。そういうことが何故あり得るのか。城戸は、探偵さながらに、何らかの糸口を見出しては現地に飛び、少しずつ謎を解いていくのである。
 もちろん粗筋をここで語るつもりはない。物語の中には、伏線というよりは、何かしら隠し持つ問題意識とでもいうのか、様々な問題が織り込まれていく。朝鮮人差別の問題も根深い。しかし、他人になりすますというからには、実は戸籍を動かすことになる。そりブローカーがいるらしいことを城戸は突きとめるのだが、そうした裏社会のからくりなども、ふんだんに描く。
 マチネのときもそうだったが、過去が変えられないということはない、という視点は、本作にも活きている。戸籍を変えるということは、過去を変えるということになるのだ。人の過去は通常、変えることができないと思われている。そうではない、と言い切る蒔野に惹かれて物語が始まったマチネの後、この作品では、では過去を人為的に変えるということがなされたらどうなるか、実験したかのようにも見える。
 城戸自身の夫婦生活の危機も、サブストーリーとして並行していく。だから城戸は、謎を解くにしても、スーパーヒーローであるわけではない。弱さと痛みをもった人間であり、揺れる心や傷つきやすい性格をもちながら、冷静に解決をたぐり寄せる、苦しむヒーローである。もしかすると、作者の身に引き寄せたキャラクターであるのかもしれない。
 途中から、謎の大筋は見えてくるようにしてあり、いわば探偵もののように、最後にいきなり犯人が指摘されて一気に解決、というような筋道ではない。城戸が、一つひとつ事実を押えていき、それを手がかりに、また次の謎を、糸をじわじわとほぐすように明らかにしていく過程が面白い。伏線があってヒントが随所にある、という探偵ものとはまた違うが、少しずつこじ開けられていく展開が、なかなか味わいがあると思える。
 ただ、他人になりすますという事態の性質上、困ったことが時々起こっていた。書く以上、そこにAという名を書くとする。しかし、このAは元々Bという本名の人物であり、それがあるときCという戸籍をもつようになり、さらにAになる、というようなことがあるとする。ここで本当のAの名で生まれ育った人物は、別のBという名をもつようになり……などとなってくるとき、文面にあるAはそもそも誰のことだったのか、どれが誰なのか、混乱が始まるのである。もちろん、城戸と出会った人が語ってくれるとき、そのAはCという名前で出会っていたので、Cと書かれたその人物が誰であるかは、迷うことなく分かる。だが、過去の話を語ったり、誰それの性格がどうだ、などとすらすらと書かれていくようになると、ちょっと待ってくれ、と言いたくなるときが、ないわけではなかった。
 しかし、それはオーバーに言っているわけであって、本当に困ることはなかったと言ってよい。タイムリーなことに、読み終わった数日後に、本作の映画化されたものが上映開始となることを後で知った。これなら、迷うことは少しもないだろう。いや、城戸がぶつぶつと、Bが、Cが、と呟き始めたら、それはよほど注意して見ていないと、こんがらがるかもしれないぞ。
 ひとの幸せというもの、死を見つめる眼差し。平野啓一郎がつねに懐く問いは、ここにも随所に隠れている。あるいは、大きな主題となっている。マチネのときには、そのいくらかが映画においてすっかり省略されてしまっていたが、今度はどうなのだろう。全部詰めるのはやはり難しいか、映画として分散してしまうと思われて、やはりそのうちのどれかだけが強調されることになるのかもしれない。それはそれでいい。映画としても期待できるとは思っている。




Takapan
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