本

『ありのままを生きる』

ホンとの本

『ありのままを生きる』
東後勝明
いのちのことば社
\1050
2008.3.

 懐かしいお名前だとお感じの方もいらっしゃるだろうと思う。かつてNHKの英語会話を担当していた講師の名前が著者として掲げてある。しかもそれを表立って記していないので、気づきにくいかもしれないと思う。
 その後、キリスト教を信じるようになった。その経緯についてもこの本に書かれてある。この本は、そうした自分の体験や思うことを自由に綴ったものであり、必ずしもまとまった流れをもつものではない。
 ただ、自分のことは前半にまとめてある。
 お嬢さんの問題を抱えていたことで、クリスチャンの奥さんを通して聖書や牧師の言葉に触れ、自分の力に頼っていたことの無意味さを知り、神に委ねることを知ったというような生い立ちや経緯が、最初のほうに書いてあるだけで、あとは自由に読み進んで差し支えないように思われる。
 サブタイトルに「人と自分を愛するための聖書養生訓」とある。信仰生活の中で思うこと、そしてかつて自分が責めたことの中に、あるいは今の自分の中にある妨げのようなものに、気づいて歩みを直されていくようなことが、どこを切ってもこぼれてくる。
 やはり知的に優れた方の文章は読みやすく、また、うまい。そして視点も鋭く、教えられることが多い。だが逆に、同じ信仰をもっていれば、どれを指摘されても、そうだ、同じことを考えたことがある、たしかにその通りだ、と肯けるのも本当だ。同じ聖書の知恵、同じ神のしもべとして歩む者同士、通じ合うところは多い。救いの根本的なところにおいては何も変わることはないのだから、その指摘に賛同することが多々あるのである。
 それでいて、視点がつねに自分への反省や、自分も含んでの悪であることなど、間違いなくクリスチャンの良いところであるものの見方というものが随所にあり、嫌味はない。ややはっきり言い過ぎではと見られるところがあるにしても、曖昧にしないことは、英会話の先生ならばずっとやってきた手法であるし、考えてみれば当然のことである。妙に遠慮する必要はない。
 そんな具合に、軽く読み進んでもらっても楽しいし、また時にずしんと重く響いてくるものを感じることもあるし、信徒の読み物としても適切なリズムをもっているように見える。ほかにも類似のエッセイが出されているようなので、肩の凝らない、しかし内容のある本として十分お勧めできる。
 ただ、一点だけ、私の目から事実誤認だろうと思われる個所があるので、最後に僭越ながら触れさせて戴こうかと思う。それは、ことばが神であるという流れを説明するところである。結論からしてことばが神であるということは聖書の指摘の一つであり、理解や説明は簡単ではないが、確かな筋である。だが、「ことば」から音声がなくなるとことばが成り立たなくなる、と断じているところから、この人の論理が始まっているのが気になったのだ。「音声のない、つまり話されない言語はない。従って言語の実体は音声である」という礎石を置いて論を進めているのであるが、書かれた文字が言語として否定されている。つまりは聖書として私たちが読んでいる書物は、言語ではない、と書かれてあるようなものに聞こえるのだ。音声を発するのが喉であり、声帯であり、それは呼吸が、つまり息が振動させる、その息が命であり神に辿り着く、というのであるが、書かれたものをことばから除外してよいのだろうか。この点について、全く触れることも一瞥されることもなくどんどん話が進んで行くので、それでいいのか、というふうに考えてしまう。
 さらにいえば、この定義や考え方は、最初から手話というものを言語ではない、と断じていることにもなる。手話が言語であることは現在は常識となっている。また私も言語でないなどとは思わない。音声のない言語はない、とした時点で、すべての手話使用者がこの著者に背を向けてしまうことになる。それは間違いだ、と。英語という音声に長年携わってきた著者であるから、ついそういう英会話の場面なども頭に置きながら書いてしまったのだろうと思うが、この点だけは訂正したほうがいいと思う。この書き方で、ろう者の文化を否定してしまっていることになるからだ。
 少し調べてみると、ある講演会で、この著者は、この論旨に関して、「一部の人工言語すなわち手話を除いては」と、手話を無視していないような言い方をしていた。しかし、これも誤認である。手話は人工言語ではない。一部の最新語については統一手話を考案することはあるが、元来ろう者たちの間で発生したものであり、「人工言語」とは決して言えない。まして、そもそも言語が「人工」であるとはどういうことを言うのだろうか。あるとすれば、エスペラント語くらいではないだろうか。あるいは、コンピュータの世界での「言語」もそうだと言えようか。しかし手話は、世界各地に存在し、それぞれの文化を形成している。その際、アメリカの手話は、歴史的な経緯で、イギリス手話よりもむしろフランス手話に近いなどという現象も起こっているが、これは人工的にそのように作られたものではない。とにかく手話について、明らかな誤認があることは、どうにも弁護できない気がする。決して重箱の隅の部分ではなく、著者の主張の根本的な部分であるようなので、はっきり指摘させて戴きたいと思う。




Takapan
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