本

『争いから交わりへ』

ホンとの本

『争いから交わりへ』
一致に関するルーテル=ローマ・カトリック委員会
ルーテル/ローマ・カトリック共同委員会訳
教文館
\1200+
2015.2.

 大変な本である。すでに2004年に邦訳された、1999年成立の『義認の教理に関する共同宣言』があるが、これを受けて、さらに2017年の宗教改革500年を視野に置いた形で、ルター派とカトリックとの行動指針を宣言する本がここに提示された。2013年に出されたものを、日本語に全訳したのが本書である。
 副題が長いが、「2017年に宗教改革を共同で記念するルーテル教会とカトリック教会」が、内容を特徴付けているのは確かだ。1517年、万聖節に宣言されたというルターの質問状から500年の節目を迎えるにあたり、これまでの争いを交わりに変えようということである。和解したと宣言しているわけではない。完全な平和が取り戻されたというわけではないし、互いに意見の合一に至ったとするものではない。「交わり」が可能になったということであり、このあたり、政治的な文書と同様に、細かな言葉の違いが内容の大きな違いを示しているといえる。こうしたものは、言われている言葉からイメージを膨らませてはならないのであって、何が言われていないか、を考えるのが筋だといえる。
 それはそうとして、内容としては、2017年への眼差しをまず掲げ、ルターの宗教改革を現在の視点で見直そうという眼差し、それに対するカトリック教会の歴史を辿った後、具体的な神学上の問題のひとつひとつを検討し、エキュメニカル運動の柱を確認するということで終わる。繰り返すが、政治的な宣言と同様に、ひとつひとつの用語や言い回しに神経を払って練り作られた文書である。
 こうした和解の方向への歴史は、50年ほどの時間を必要とした。カトリック側における、第二バチカン公会議(1962-1965)での動きが大きな転換点となっている。事の経緯についてここで論ずる必要はないし、その暇もないのだが、政治的にどうであれ、これが450年の歴史を覆すかのような、大きな出来事であったことは確かである。
 弟子たちがひとつとなるためにキリストは祈った。このことは、心の重荷となっていたかもしれない。キリスト者、そしてキリスト教会が、正義を託されたかのような顔をして世界の中で灯となっていたはずだったのに、実のところカトリックとプロテスタント、あるいは他の宗派に分かれ、戦争や殺し合いすら起こしてきていた。恨みを抱かれていると思ったら、神殿に献げ物をしている場合ではない、直ちに戻って和解せよ、それから献げ物をせよ、とマタイ伝にあることが、気にならないはずはなかった。いや、気にしていなかったとしたら、これは良心が麻痺しているようなものである。
 これは、個人的なレベルにもある。罪を犯さない人はいないのだが、その罪を自分で許してしまうと、だんだんと無感覚になっていく。習慣のようにすらなっていき、あるときに厳しく教えられて立ち直るならばまだよいのだが、そのままで人生が終わるということもあるかもしれない。ダビデ王に預言者ナタンが宣告したときのダビデの驚きは、私たちにとり心痛いものではないだろうか。
 教会にも、それはあった。あったはずであった。なんとか、それをひとつに、という祈りがあったとしても、いざその兄弟が目の前に来れば、これは教会のきまりだから、などと言って、共に礼拝を献げることができなくなっていた。聖餐や洗礼といった、プロテスタント側も残している典礼においてすら、その通りである。互いに受け容れられないままに過ごしてきた。いつか次の世代が解決するだろう、などとどこか無責任な放置をしてきた面もあるかもしれない。
 この垣根を越えようとする動きがエキュメニカル運動であるが、確かにそれが始まったことは画期的であった。それが少しでも、このように形となって現れてくることは悪くない。今後どうなっていくか、楽しみでもある。
 しかし、どこかカトリックの大きな組織の中で、吸収合併しようという意図がそこにないか、目を覚ましている必要もあるだろう。とりあえずルーテル派と今回このような形を築いた。だが、プロテスタント全般との和解への梯になるかどうかは、未定である。万事、これでカトリックとプロテスタントとが結ばれていく、としてしまうことには問題がある。さしあたり、これはルターを直接の祖と仰ぐべき立てられている、ルーテル派の営みである。懸命に、互いの伝統を守り、また相手をかばい合うような言明を出して認めていく試みがここにあり、それは確かに痛みも伴うものであろう。もしかすると、ルーテル派が動けば、自分たちも動いていい、と構えて様子を見ているプロテスタントグループもあるかもしれない。だが他方、懸念もあるだろう。ひとつになろうとすることが悪いとは誰も考えてはいないと思うが、この今目の前にある動きがすべて肯定されるべきかどうか、見張っている動きもあって然るべきである。用心はすべきだろう。
 とはいえ、こうして表に出したということは、出したものについては、逃げも隠れもしないという宣言でもある。願わくば、これが本当に良い方向に進んでもらえればと思う。従来互いに相手を反キリストであるとか、外れものだとか非難しあっていた、あるいはそのように思い込んで軽蔑さえしていたような間柄の中で、握手が交わされたということは、たしかに大きな転換点となりうることである。そのために、この本は公式資料となる。その意味で、クリスチャンは手にしておきたい。そもそも何が問題になっているのか、そういう認識すらないままに、印象や感情だけで問題を判断することは得策ではないからである。知ること、知ろうとすること、それが大切なのである。




Takapan
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