本

『嵐の中の教会』

ホンとの本

『嵐の中の教会』
オットー・ブルーダー
森平太訳
新教新書230
\950+
1989.12.

 すばらしい本だった。言いようのない感動と、この世の力の恐ろしさをも感じた。  改訳として1989年に出版され、その後私の入手したのは2015年の第8刷。コンスタントに出版され続けているらしい。
 原題を、一般的に分かりやすい意味の日本語に変えているが、原題は聖書的に含蓄の深い言葉となっている。私は最後の頁になって、その言葉が小説に出てきているのを知ってその場で合点がいった。そして、それが元のタイトルであったとあとがきで見たときにも、アーメンと言うだけであった。
 この本については、キリスト教放送局(FEBC)が2017年10月から放送していることで知った。ラジオドラマの原作である。サイトでも紹介されていたので、探すと古書で見つかった。元々は1960年に出版されたものだというから驚くす。改版されたのが1989年であるが、その後も地味に刷り直されている。それだけ、着実に読まれているということなのだろう。 ドイツの小さな村に、新しい牧師が赴任する。その牧師は、信仰を貫くことで次第に村人たちが目覚めていくようになるが、そこへ、ヒトラー政権の世の中になっていく、そこでの出来事を物語は描くす。事実のルポではないはずなのだが、まるで本当にそのことが起こり、また目の前で繰り広げられていくような臨場感を覚える。
 すり替えられた「キリスト教」に魅入られて、権力の側につく者たちが登場する。いまの日本人から見ると、そんなバカなことを何故したのか、と思われるかもしれない。しかし私は感じた。このような政治的権力の支配がたとえないままでも、何かに取り憑かれたように自分こそ正義だと思い込む者は現にいる、だからもし政治的な状況が設定されれば、このドイツどころではないような事態に陥る危険性は十分にある、と。実際、太平洋戦争の時にキリスト教会がどのようなことを発していたか、歴史は証明している。
 過去の特定の行いを責めているわけではない。人は、いつでもユダのような行為をとってしまう可能性をもっている、と言いたいだけのことである。「まさか私ではないでしょう」と言った弟子たちも、逃げ去ったなどの点ではイエスを捨てたことは否めないのだから。
 物語の最後に示された言葉に、私はすべてがつながるのを覚えた。それが原題の意味であった。だからこれからお読みになる方は、原題を知らずに物語を読んでしまうことをお勧めする。最後に、私と同じような驚きと感動を経験することになったほうが、きっといい。
 これを2017年に放送することに決めたFEBCにも、何かしら思いがあることだろうと思われる。が、これはいまだから、とは言わず、「目を覚ましている」ことのために、つねに心に構えていなければならないことだ、と私は思う。放送局を通して、心に深く刻まれる感動を与えられた。ただただ感謝する。だが、ここからが自分のスタートである。多くの方にそのスタートを切って戴きたいとも願う。




Takapan
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