本

『あのとき、そこに きみがいた。』

ホンとの本

『あのとき、そこに きみがいた。』
やじまますみ
ポプラ社
\1400+
2018.3.

 絵本である。「2016年4月 熊本地震の現場から」というサブタイトルがついている。色鉛筆と水彩で描いたような、やわらかな、しかしリアルな絵である。
 各頁は、日付ないし時刻と、その時の様子を描く文章が淡々と綴られる。ひとの語る言葉が方言で生々しい。とくに感情を表に出したり、訴えたりということはなく、事態を静かに物語る調子である。
 描かれる人々の口は、その殆どがきゅっと一文字に結ばれている。言葉を語ってはいても、口を結んでいる。これは作者の感覚なのだろうと思う。その唇が、何かを物語る。忍耐なのか、不安なのか、それは読者が受け止めるべきものだろう。
 テーマがやがて現れる。「ビブ」である。スポーツ選手がかぶって着ることがあるチョッキ(?)のようなゼッケンである。ボランティアの中学生たちがつけているのだ。物語はその後、中学生たちとは呼ばずに「きいろいビブたち」と称することで進められていく。

  きいろいビブたちが……ごはんや水をはこぶ。
  きいろいビブたちも……バケツリレーのようにはこんでいる。
  きいろいビブたちがあたたかい救援食料をくばるのをてつだっている。
 ここまでは複数形だが、この後単数形になる。
  きいろいビブが元気な声でおしえてくれる。
  きいろいビブが明るくふるまってくれるから。ちいさな希望をそこに感じるから。
  けれどもきいろいビブだってつらいのはいっしょ。

 このとき、そこに個人がいることを強く意識させられる。集団としてのビブたちではない。一人ひとりが、その場にいて、自分という存在をもって、地震の恐怖とやるせなさを、被災者と同じように抱えながら、動いている。
 そんなビブたちが、勇気のことば、希望のことばを投げかけるようになる。ふたたび複数形になり、みんなの思いが輪になり、重なっていく。
 ビブは汚れていく。洗濯しなければならない。洗われていく心を象徴している。そして、洗濯の場に相応しいような、シャボン玉が飛び交う。シャボン玉が、希望と勇気を連れて、あたり一面に飛んでいく。広い空を、人々の思いで埋めつくすように。
 絵本は、きいろいビブに感謝の意を伝えて、物語を閉じる。それは、中学生の絵ではない。ビブだけだ。6番の数字に意味があるのかどうかは分からないが、重なった数枚のビブが、人の心も重ねていることを表しているような気がしてならない。中学生だけじゃない、読者も、この「ビブたち」の一人となるのだ。
 作者は熊本在住の作家である。妻の故郷として引っ越してきて、18日目に地震に遭遇している。大きな被害は免れたものの、惨状を目の当たりにする。そんな中で、目の前に起こったことを書き留めなければとの思いで、この絵本の完成へとつながった。中学生たちのきいろいビブを一生忘れないと告げ、シャボン玉も実際に見た光景なのだという。
 あのとき、きみはそこにいた。きいろいビブたちのことを言っているには違いないが、私は思う。あのとき、作者もそこにいたのだ、と。きっと、そこに居合わせるために、その場に導かれたのだ、と。そして、読者たる私たちも、この絵本が生まれたことによって、同じように、そこにいるのだと教えられているのだ。促されているのだ。そこに、私もいたのだ、と感じることがなければ、私たちの心は、ビブを知ったことにならない。
 クリスチャンは、「キリストを着る」という表現を知っている。私たちは、ビブのように、キリストを着ているのかもしれない。それは簡単には脱げないはずだが、キリストが私たちの汚れを洗濯してくれる点も、似ていると言える。「ビブたち」の一人として、勇気と希望を懐きつつ、ここにいるのだ。




Takapan
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