本

『あん』

ホンとの本

『あん』
ドリアン助川
ポプラ文庫
\600+
2015.4.

 2013年に刊行されたものの文庫化。そして2015年に映画化されている。私はその映画から先に見た。何か惹かれるものがあってのことだったが、映画としては大変地味なものであるに違いなかったにも拘わらず、確かにそれは心に残るものであった。
 小説について触れる以上、そのストーリーをすべてここで晒すことはしないでおこうと思うが、訳ありの男がひとりでどら焼きを売っているところに、雇ってくれないかという年老いた女性がやってくる。断り続けるも、ついにその女性の作る「あん」を店で使うことになる。女子中高生の立ち寄るばかりだったその小さなどら焼き屋の味が変わった、とたちまち評判になり、店は繁盛する。孤独な女子中学生がそこに関わり始める中で、その老女は店を出なければならなくなる。男と中学生は、その老女を訪ねる。
 この程度でしか言えないのが通例であるが、やはりここは、ポイントとなる、ハンセン病というものを出さないわけにはゆかない。老女が差別されて生きてきた姿を知り、男は、地味ながら何か変わっていく。心を閉ざすようだった、これまた訳ありの中学生も、何かを見つけていく。
 よく取材されているが、ハンセン病については、そう酷い描き方をしているわけではない。私たちは、その背後にどれほど辛いものがあったか、その重みをひとりひとり想像するべきである。作者は、それを押しつけがましくぶつけていない、ということである。その訴えも大切なことだが、切なくしみじみとしたものは十分伝わってくる。読者はそれを押しつけがましく感じ取らなければならない。
 だが、なにも差別や社会制度を訴えようとする作品ではない。徳江という老女と男とが離れてから交わす、いくつかの書簡が、それを物語る。互いの心を明かすその書簡は、この小説の輝きである。
 あんを作るとき、小豆の声を「聞く」という徳江。ひとは、この世を「聞くために生まれたきた」という。この世に生まれてきた意味をそこに見出し、生きる意味があると確信する。失われた時間が、人との間には垣根を作り、むしろ孤独な思いをももたらすことになるけれども、自然のすべてはまた、自分という視点がなければ消えてしまうほどのものだと感じ、全存在に対して、私が「聞く」ことに意味があるのだと宣言するのだ。
 また、「言葉を持たないものたちの言葉に耳をすますこと」が「聞く」ことであると書簡の中で定義されている(163頁)のだが、ここに私は一番心が留まった。というのは、詩人である作者が一番心の核心に有してやまないのは、この考え方ではないかと思われたからである。結局、詩人とは、そういう言葉を聞くこと、そして聞いた言葉を代弁するようなことを使命と覚えている人のことではないか、と私は思うのである。
 いや、作者からすれば、見当違いのことを私は分かったように言いふらしていると批判されるかもしれない。だが、私も詩人のはしくれ、このスピリットが心に響いたということで勘弁して戴きたい。
 とにかく、物語として、その展開から言葉の選び方、描き方など、あらゆる面にわたって、「巧い」と羨むしかなかった。それだけは、私の確信として、憚ることなくお伝えできればと思っている。映画も良かったが、映画がこれとは少し違う印象を与える描き方であった部分もあり、原作で十分な説明を施して戴いたことで、逆に映画の真意を受け取るのにためらう必要がなくなった、という点も、付け加えておきたいと思う。




Takapan
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