本

『おおかみこどもの雨と雪』

ホンとの本

『おおかみこどもの雨と雪』
細田守
角川文庫
\514+
2012.6.

 もうこれのアニメ映画の上映から十年を過ぎてから、初めて原作を読んだ。買ったのもいつか思い出せないが、ただ置いていたものを、ふと読もうと思った。
 映画はとても印象的だったので、よく覚えている。しかも、テレビ放送もされたので、それを見てより記憶が定着していた。
 花という女子大生が、知り合った男性と恋に落ちる。親のいない花は、自由な立場にあったので、その恋愛は自然な形で進んでゆく。男性は、大学に出入りしていたが、学生ではなかった。そして、おおかみであった。人間の姿でいられるけれども、どうかするとおおかみの姿にもなることができる。人間の姿で生活はできていた。運転免許ももっていた。その免許証が、物語の最後まで登場し、花を見守る。
 ここからすでにファンタジーである。十年を経たけれども、筋道を全部明らかにするわけにはゆかないであろう。凡そありえない設定の中で、ありふれた道徳や社会的制約が入り込むことなく、純粋に結婚と子育ての物語に、読者は入ってゆく。映画を観ていなかったら、本書だけでどのくらいのリアリティをもてるのだろうか、それは私には永遠に分からないが、むしろ映画の中では説明されない花の内面が文字となっているために、路線を外れずに話に乗っていけるのかもしれない。
 おおかみ男は不幸にもいなくなる。二人目の子が生まれた翌日のことだった。悲しみのどん底で、花は逞しく二人を育て始める。二人は、「おおかみこども」だった。人間の姿をしているが、どうかするとおおかみの姿に戻ることがある。姉の雪は活発で、弟の雨は引っ込み思案で弱気である。
 舞台は田舎に移る。おおかみこどもの正体を、都会では知られる可能性が高いとみたのだ。なんとか貯金で生きてこられたが、生活するには山奥の村がよいと思われた。慣れない自家農業に挑む中で、村の人々も花を支える。依然として、おおかみこどもであることは知られずに過ごすことができている。ついに最後まで、知られないのは幸運であった。
 要するに、その秘密の謎解きではなく、人とおおかみの昼間の存在の子どもたちをどう育て、子どもたちがどう育っていくか、そこに焦点が当てられて然るべき物語だったのだ。だから、そんなことはないとか、都合よく話ができているとか、そういう批判は、的外れなのである。
 もちろん、ここでいう「おおかみ」とは何を描こうとしているのか、そこを考えるのは確かに必要である。だがそれは、読者一人ひとりが、自身に合わせて捉えればよいだけの話。人間の中の獣性であるのか、何かしら人前に出せない奥深いものであるのか、それは一様に決める必要などない。
 ただ、小学生高学年で、弟の雨は大きく変わる。もちろん、姉の雪も、年頃になり、デリケートな部分が出てくる。決して人前ではおおかみの姿を呈してはいけないという戒めに従っていたのだが、草平という男の子の出現によって、それが危ぶまれてくる。しかし、理解できる相手に明かすということは、大切なことだ。私たちもまた、自分の中の秘密を誰かと共有できるとなれば、どんなに安心できることだろう。
 雨のほうはというと、学校になじめず、山の中にいる「先生」と親しくなってゆく。クライマックスの豪雨の中で、雨はおおかみとしての人生を選び、動物と人間との境界を衛るための山のリーダーへの道を歩むことになる。豪雨の中で、雨を手放してくないという思いのままに命懸けで雨を探しにいく花は、最後には、「しっかり生きて!!!」と叫ぶ。
 この映画が上映されたその年に、私と妻はこれを映画館で観た。その年、次男が大学生となり、広島へ出て行った。親の手を借りず、独りで何もかも手続きをして、寮に入り、見送りも拒んで独りこっそり家を出るように、去って行った。小さいころから体が弱く、性格的にも内気なところがあり、映画の中の雨の姿と重なるところがあるように思われた。だが、雨はいつの間にか成長する。そして、まだまだこれからという段階ではあるにせよ、花の手許から離れ、使命感を懐いて自然の中で逞しく自活していくようになってゆく。それも、確かに天候は雨の中であった。花が、その雨に向けて叫ぶ「生きて!」という言葉は、そのまま、次男に向けて叫ぶ親の思いのようであった。
 その次男が、家庭を持つことになった。親として、あのときの思いを、この物語になぞらえて、少しばかり話をしようか、と思っているところである。そのために、本書をようやく読む気持ちになった。そのお相手の名前は、音だけであるが、雨の姉と同じものである。




Takapan
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