『雨・赤毛 他一篇』
サマセット・モーム
朱牟田夏雄訳
岩波文庫
\301+
1962.1.
ある本を読んでいて、「雨」を読みたくなった。昔読んだ。本棚を探したら、見つかった。なんと1992年に読んでいる。30年振りに読む。覚えてなどいない。なんでも宣教師の独善が露骨に描かれているという。楽しみだった。モームのことである。最後にどんなどんでん返しを用意しているか、という期待もあったが、読んでいくうちに、終わりは見えてきた。それは、昔読んだ記憶が助けた可能性もあるが、モームと気が合うところがあるのかもしれない。というのは、本書に載った三つの短編について、殊更に意外だという気がしなかったからである。
それにしても、訳が古い。そういうとき、巻末によく、今日では適切でない語が使われていることがあるが、訳者が故人でいること、作品の歴史性を云々、といった但し書きが付いていることが普通になった。しかし本書にはそれがない。1962年がそうした但し書きはまだなかったにしても、1992年の版で加えるということはできたのではないだろうか。しかしそういうのは、やはりできないのかもしれない。出版業界の常識というものは、私にはよく分からない。
ともかく、「雨」である。これら三つの作品が、南の島を舞台とし、そこに住む白人が、原住民を支配している中での有様が描かれていると言ってよいが、この「雨」は、その中でも特に強くその白人と土地の人との姿が露骨に描かれている。モームの皮肉や批判のようなものがこめられているのだろうか。この原住民について、この訳は「土人」と訳している。もちろん昔は普通に使っていた。だが、差別意識の自覚から、使用不可な言葉とされていったのだった。だから本書でも、それは止めた方がよい、という意見もあるだろう。だが、その差別意識自体をこれらの作品が描いて痛烈に批判しているのだから、ここは「土人」という訳が実は優れているのだ、と見ることもできる。私はこちらの意見である。
因みにこの語自体を見たことがなく、意味が分からない、という人もいるかもしれない。しかし、1997年まで、約百年間、「北海道旧土人保護法」という名前の法律が日本にあったことを思うと、日常使わないにしても、差別語そのものに無頓着でいてはならない、と私は思う。
ストーリーは明かさないのが私のポリシーである。「雨」は、デイヴィッドスン宣教師の、高らかな笑いが実に嫌な響きを出す。始まってまもなく、マクフェイル医師に「キリスト教をはじめた人は、そんなに人を区別したりしなかった筈だが」と言わせているし、不埒な女を強制退出させることについて譲らないくせに、その女のために熱心に祈るというような、どう見ても偽善的な振る舞いを続けて、しかも神は素晴らしいだのと口にしながら、結局自分を褒め称える始末である。しかし、人間がそのような偽善をしていることを、果たして神がそのままにしておくだろうか。
震え上がってほしい。自分が説教をするような基本の経験もなく、口からさも尤もらしいことを並べて牧師のような立場に就いて、自分の野望を叶えようとしているような人がいたら、震え上がってほしい。世間でヤバい立場になるとそこから神学校に逃げて、小さいころの夢を叶えようと企んだような人がいたら、震え上がってほしい。その意味では、「雨」のこの宣教師は、偽善者であったとしても、まだ妥当な人生を送ったことになるのだ。
続くは「赤毛」である。レッドと呼ばれた若く美しい水兵が、脱走したか何かで島に来る。そこで島の娘と恋に落ちる。ああ、若い運命の恋よ、幸せであれ。そう願う読者がいるかもしれない。しかし二人は別れさせられることに。ああ、悲劇の恋であった。いや、そうかな。時は流れる。それは、しばしば物語の外に置かれてしまうのだが、モームはそうはしなかった。
最後に『マキントッシ』。この名の男は狂言回しの役割を担う。主人公はウォーカーという名の元軍人。島では横暴に、したい放題振舞っている。しかし、島のいわばインフラ整備と労働市場をつくっていたのは事実だった。マキントッシはこの男の補佐を務める。いつかウォーカーが死んだら、その後を継いでくれとも言われる程だった。傲慢で豪快な男気たっぷりのウォーカーが、人物としてはなかなか魅力的である。それは白人が現地人を支配する、偏った時代のあり方だった。だが、何が善いとか悪いとか、そんなことをモームは気にしない。タイトルにはウォーカーでなく、マキントッシを付けられた。この男の行動が、読者にぽんと投げかけられる。それは、「雨」も同じかもしれない。「どうして」という読者の疑問に、モームは一切答えない。読者がもやもやとしながら、自分の胸に問うていかなければならないという具合である。
訳者の朱牟田(しゅむた)夏雄には、その名著『英文をいかに読むか』でお世話になった。世界の英文をたくさん集め、その訳し方を教授する本だったが、なんと私立大学の入試では、その中にあった文章が出題された。当時は私は理解していたとは言えないが、この本の英文は全部複数回訳す勉強をした。訳者の名前に、ふとそのことを思い出した。どうりで、翻訳が読みやすかったはずである。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド