本

『古代キリスト教思想の精神』

ホンとの本

『古代キリスト教思想の精神』
R.L.ウィルケン
土井健司訳
教文館
\4100+
2014.6.

 発売されたときから気になっていたが、やや高価なのと、他に優先して読むものがあって、少し後れて手に入れることとなった。
 専門的な本の部類に入るだろうと思う。クリスチャンであっても、誰もが読んで肯けるようなものではないかもしれない。もちろん、妙なエリート意識で言っているのではなく、必要がないだろうという意味でもある。
 本書のテーマは、教会が形成されたその時代の、人々の「ものの考え方」を追究することにある。たんなる聖書の解説ではない。聖書の言葉がどういう背景で選ばれ、記されているか、という点についてのパースペクティブを読者に提供しようというものである。  もとより、これを言い始めるときりがない。あらゆる歴史的文献を気にして取り上げると、煩瑣なものになる。そのバランスが難しいのだが、私見では、著者の目に適うところから比較的自由に題材が選ばれているように見える。その意味で、これは資料集ではなくて、確かに著作なのである。
 私たちの今いる立場からの「信仰」の眼差しで聖書を捉えることも有効である。だが、それはおそらく原典の著者、そして聖書が成立した頃の人々の受け止め方とは、違うだろう。つねにその原典が最高で、その時の解釈しか許されない、というようには私は思わないが、それを無視して自分の視点だけから解釈してしまうというのは、さらによくないことであろうと思う。そこで、私たちは、原語が選ばれた時点での考え方、理由といったものについての一定の理解をしたいと願うのだ。
 では、それはどうすれば手に入れられるか。当時のフィルムや録音があるわけではない。文献が頼りだ。あるいは、遺跡なども参考になるだろうか。それでも、たしかに生きて生活していた人々の、ものの感じ方や人生に対する思いなどが、ありありと実感できるような方法が、果たしてあるのだろうか。さしあたり、文献しかあるまい。そこにあるのが、庶民の声や生活感覚であるかどうかは分からない。一部の教養ある人々の、権威を交えた見方の中での建前かもしれない。しかし、それは確かに歴史上、影響を与えたわけだし、後世にまで保存されたということは、それだけの意義があり、遺す加地がるとされ、そのように要請されたものであるはずだ。
 キリスト教においては、聖書が第一級の史料であるとは間違いないが、いわゆる教父たちの著作が、それに準ずる。また、ヨセフスのように、キリスト教の内部ではない人物により、詳細な記録がとられている場合もある。ヨセフスはヨセフスで、ユダヤ文化を知るとはいえ、ローマ側からの著作であるし、なによりローマ当局の監視の許で記されたものであるために、内容的にも割り引かねばならない面がある。しかも、その割り引くのがどこか、という点についても、諸説が現れることになるわけだ。
 教父たちの文献も視野に入れる。こうした学究の方向性は、前世紀から盛んになってきた。その豊かな研究史料を受けて、今世紀、精力的に多数の学者が、当時の社会と思想について研究を重ねている。中世における、思想の暴走も、研究すると面白いであろう。だが、何よりも、聖書の語を決定したような時代に、どのような考え方を人々がしていたか、どういう概念や世界観をもっていたか、それは、聖書がどのように受け容れられたかという意味においても、興味津々というところであろう。本書は、そのような面白さを、あまり堅苦しくないやり方で踏まえて提供する、比較的自由に読める本である。こうした歴史的背景を窺い知ることによって、私たちは、私たち自身の思い込みから、少しでも解放されて、イエスの言葉をその場で聞くような立場に立ってみたいものである。




Takapan
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