本

『すべてのいのちを守るため』

ホンとの本

『すべてのいのちを守るため』
教皇フランシスコ訪日講話集
カトリック中央協議会
\1100+
2020.1.

 2019年11月下旬、四日間にわたり、ローマ教皇フランシスコが、日本を訪れた。38年ぶりの歴史的な瞬間だった。広島と長崎を訪ねるという目的もあったが、彼自身が日本に非常に惹かれるものがあり、実現した企画であったのだとも聞いている。期間中、各地で講演をしている。それらの言葉はウェブサイトでも公開されていたが、それらを他の言語との比較も交え丁寧に見直し、また滞在時の写真をも集めた形で、ひとつの本となって教皇の言葉が発刊された。1つの記録ともなりうるものだが、こうして形になった日本における発言のまとめは、非常に意義があると考えている。
 私はプロテスタント教会に属しており、またプロテスタントの信仰をもっているといえる。しかし、カトリックにはそれなりに理解をもっており、尊敬すべきところが多々あると思っている。いや、欠かせない役割があるに違いないのだ、とも。
 教皇を頂点とする組織の内部には属さないために、これらの言葉の受けとめ方もまた違うことになるだろうが、訪日講演に限らず、様々な発言には日ごろ注目しているつもりである。もちろん全部に目を通しているわけではないが、時折カトリックの年鑑にあるものを読んだり、ウェブサイトを訪ねたりもする。政治的にも大きな意味をもつ発言である故に、たんに宗教の一派としてでなく、人類に向けられるメッセージであると捉えたいと思っている。それだけ実に練られた文章であり、また意義ある内容なのである。
 さて、本書については、「旅行前のビデオメッセージ」に始まり、「帰途の航空機内での記者会見」に至るまで、いや正確には、タイと日本を訪問したこの旅を振り返る講話のところまでが、ここに収められている。東京での司教団との会合、長崎での三度のメッセージと挨拶もある。特に長崎では主日のミサ説教もあった。広島では平和のための集いがあり、東京でだが、東日本大震災の被災者との交わりがあった。さらに青年に的を絞った集いもあり、再びミサ説教として、本のタイトルにもなっている「すべてのいのちを守るため」と題したメッセージもあった。その他、政治的交わりの集まりの時のものもあり、上智大学において、これまた相応しい話が掲載されている。まことに羨ましいくらい、練られた言葉がこんなにも語られたものである。
 その内容をここで一つひとつ紹介しようとは思わない。いつものように黄色いマーカーで塗りたくられた本なのだが、フィルム附箋もあちこちに貼られていて、放っておくと全文が黄色になり、また全頁に附箋が並ぶかもしれないという勢いであった。つまり、大切な言葉、心に響く訴えが多々あったということである。それはもちろん聖書に裏打ちされている。しかし、聖書を語る者がこの世界に訴える言葉という意味でも、一流のものであった。いや、それは失礼な言い方だろう。この世界でこれにも勝るほどの影響力をもつ質のいい言葉はないかもしれないほどのものである。そう認めても、よいではないか。尊敬しなければならないのと違うだろうか。
 愛に満ちた眼差しを感じる。一つひとつの言葉に、祈りがこめられていることが伝わってくる。こうした点については、本書にある解説にも述べられている。ひとの心を慮ることにかけてはいま大いに活躍している若松英輔さんが、信仰の思いと重ねつつ、しかし評論家として一定の節度ある距離を保ちつつ、17頁にわたり綴っているのだ。
 すっかり魅了された、とは言うものではないだろう。しかし、魅了されたほうがいいと思った。世界の危機に対して、この人以上に祈り、かつ影響ある働きをなしている人はほかにはいないだろうと思われるからだ。十分な尊敬の心をもって、この言葉を日本への直々のメッセージであるとして受け止めて、プロテスタント教会もまた、丁寧にこれらの言葉を味わったらいいと思うのである。いや、味わうべきだ、とまで思う。現実の世界に対する様々な問題についての、オピニオンリーダーである。そのオピニオンを無視して、何が世の光であろう。これらの言葉を味わうというのは、全部それに従えと言っているのではない。ここから学べと言いたいのである。無知であってはならない。
 上智大学で教皇は、「己の行動において、何が正義であり、人間性にかない、まっとうであり、責任あるものかに、関心をもつ者となってください」と訴えている。まさに知恵の名をもつ日本の大学において、若者たちに望むことを、このような権威をもつ形で語れる人は、残念だがプロテスタント教界にはいないであろう。
 尊崇すべきだと強いるつもりはさらさらない。しかし、ここから学ばなければならないと思う。カトリックを毛嫌いして寄せ付けない人には提言しない。ただ、そうした人がいることは信じたくない。聖書はそうした毛嫌いをこそ嫌っているのではなかろうか。「兄弟たち」と呼びかける聖書は、つまりプロテスタント教界が最高のものと掲げているものが何を訴えており命じているのか、実はそこに最も権威をもたないものとしてしまっているのが、プロテスタント教界ではないか、と疑うことが私はある。ばらばらで、論争ばかりして、その結果自分たちこそ最高で、他の教団を見下しているような潜在意識があるような気がしてならないのだ。杞憂ならばよいのだが。
 そういうわけで、プロテスタント教界こそ、日本人に向けて語られたこれらの言葉を、学ばせてもらったらいい。キリストの弟子たちがリンクしていかないと、これからの時代はもう現実への力を養えないのではないか、とすら懸念するのである。共に読み、学び合いませんか。




Takapan
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