本

『悪と全体主義』

ホンとの本

『悪と全体主義』
仲正昌樹
NHK出版新書549
\780+
2018.4.

 サブタイトルにあるように「ハンナ・アーレントから考える」というのが本書のすべてである。要するにハンナ・アーレントの思想を追いかけ、そこからいまここにいる私たちの姿を炙り出そうとしているのである。それは、自分の姿を見つめようということにほかならない。
 だから結論から言うと、ひとは誰でも全体主義に陥る可能性をもっている、という警告を受け止めるべきだということである。
 基本的に、ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』を読み解くことを行う本である。良き解説書になっていると言えるだろう。私はその本自体を通して読んだことがないので、本書を頼りにする他なかったのだが、しかしその本をまるで実際に読んだかのように、呑み込める思いがした。ということは、本書の解説が巧いということなのだろう。
 元々、100分de名著の「ハンナ・アーレント」というテキストを編み直したようなものだという。そうか。私はその番組を見ていた。だから本書がすうっと入ってきたのだろう。アイヒマン裁判について大きく取り上げることや、アーレント自身が非常に迫害された背景やその理由などについても、かつて番組で養われた知識が助けていたに違いない。
 私はいつも、十冊くらいの本を並行読みしている。本書を読んでいたとき、同時にル・ボンの『群衆心理』を読んでいた。これは一緒に読んで実によかった。時代は違うが、それぞれが互いに相手の議論を上手に補ったり支えたりしているようなところがあるからだ。ル・ボンは、人間が群衆となったときにどんな性質を示すか、それはどういう人間の素養に基づいているかを、フランス革命などの例も踏まえながら、19世紀末に指摘した人である。そしてこれが、群衆心理を考えるときのベースに置かれる価値のあるものとして、以後の議論には踏まえておくべきひとつの土台となっている。アーレントは、もちろんユダヤ人の迫害を経たナチスの背後にあるものを指摘したことになるわけだが、このアーレントは先に触れたように、人間誰もがあのような残虐さを平気でしてしまう可能性を秘めているのであり、全体主義は、ふとした条件の変化により、先ほどまで平和、平和と叫んでいたような人も、簡単に残虐性を当然とするような人間に変えてしまうことができる構造なのだということを露わにした。そのため、親しい人々も去り、世間は囂々とアーレントを非難することとなった。
 著者は、もちろんこのアーレントの考えを肯定し、その見方を大切なものとして、読者に考えてほしいともちかけている。私もそれに頷く者である。但し、私はアーレントとは別に、人間はそのようなものだとすでに考えていたし、私の根底に、そのような見方が居座っていた。アーレントを知る前からそうだったと言えるが、もちろんどこかで何か間接的に影響を受けているかもしれない、とは思う。
 人は誰も自分の正義を強く言うようになると、全体主義へと傾いていく。物事を二つに割り切って決めるのはよくない、という持論を展開する人自身が、熱を帯びてくると実は二つに割り切って相手をねじ伏せようとすることくらいは、分かっていた。自分の立つところからしか世界を見ることができないでいると、そうなっていくことは必定である、と。複眼的な思考、また相手の主張の根拠を考えるなどの視点をとることなしには、ひとは簡単にひとつの考えに流れていき、大きな力となって他を圧迫してしまうようになりうるのである。いや、現になっていると私は考える。本書は、そのような危険性を、アーレントの戦いを踏まえながら、告げているのだ、と私は理解した。
 100分de名著のテキストにも、理解するために様々な資料が、注釈を含めて入れられている。本書もその意味で、図表や注釈が非常に充実している。それもまた、理解を助ける道具となるはずである。また、ある意味で観念的な論述だけで分かった気にならず、資料を踏まえて縦横に把握するために役立つことだろう。
 要するに、誰かを迫害するとき、ひとは自分を正しい、としている。悪を為した者は悪魔のような存在であり、その悪を為すに至った理由がある。それを眺めている私は決してそのようなことをしない。なぜならその悪人のような背景をもたないからだ。私たちは、このように考えがちなのであり、そう考えて安心したいのである。本書も少し触れているが、テレビのワイドショーは典型的にそうであるし、私は新聞もそうだと思うが、事件を起こした人物の背景を暴き、如何にそこに悪の根があったのか、をなんとかして明確に示そうとしているのは確かである。そうやって自分たちは違う、善良な市民なのだ、と安心したいのである。アイヒマンの裁判でアーレントに世間が噛みついたのはこういうことなのだと本書が教えてくれるが、私はなおも、現在も人々のこの傾向性は、アーレントが指摘したにも拘わらず、全く何も変わっていないではないか、と叫びたい。人間は、歴史からも、思想からも、学ぶところがないのだろうか。多くの情報が大量に飛び交う時代だからこそ、より、簡単にデマに流され、究極のデマ、即ち「私は正しい」という思想に流されてしまうのである。 




Takapan
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