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『悪文の構造 機能的な文章とは』

ホンとの本

『悪文の構造 機能的な文章とは』
千早耿一郎
ちくま学芸文庫
\1100+
2024.10.

 世に「文章読本」は数多けれど、「悪文読本」はそう目立たない。買う側からすれば、マイナスがメインになるというのは、どうだろう、というところだろうか。だが、反面教師のように、悪例がある方が、実のところ実用的である。
 聖書だって、甘い言葉が書かれてあるところばかり読んでいるよりは、人間の悪をがっちり示してくれた方が、本当はいい。それを示されて、それは自分のことだ、と痛感することこそが、聖書を読む本当の意味である。
 作文教室でも、しばしば模範的な文がお手本として掲げられ、このようにしましょう、と指摘する本がメインなのだろうか。しかし、本当は突きつけるとよい。こんな文があるが、どんなに拙いか、見せつけられるとよいのだ。解説以前にその拙いところに気がつかないということは、その読者は知らず識らずのうちに、そうした文を書いているであろうことが予想されるわけである。
 本書は、タイトルに「構造」という語がついている。それは、「解説」で石黒圭氏がきちんと指摘している通り、文章の書き方に於ける「表現技術に関する観点」が8つあるうちの、ほんのひとつに過ぎない。本書ひとつで、文章の書き方について広い見識が得られるわけではない、というのである。だが、このひとつに徹底し特化したあり方が、散漫になってどこかごまかしたようになってしまうことから守っている。実に手厳しく、構造的な悪文を、とことん明らかにするのである。
 樹形図のような形で、文の要素をその関係から示し、ここがつながっていないとか、この並びが分かりづらいとか、しばしば視覚的に、悪文の構造を示す。その手法で説明するのは前半部であるが、たいへん分かりやすい。正に百聞は一見にしかずである。
 石黒氏による「解説」でのまとめだが、「本書の主張は、センテンスを書いたとき、その構造が一つの意味でしか解釈できないように、頑強に書くこと、それに尽きる」というのは本当だろう。もし補うならば、それを、読者が負担なく速やかに解釈できること、とでも言えばよいだろうか。
 私は、冬の時季に、高校入試の推薦入試のための作文を見る役割がある。また、中高一貫校のための作文を、小学六年生に指導することを長らくやっていた。作文を指導をする割には、こうしたおまえの文は「悪文」ではないか、と文句を言われそうだ。しかしそれを覚悟で言うならば、曲がりなりにも他人を指導する以上、何がどうだからよくない、という指摘をしなければならないため、理屈は心得ているつもりだ。
 そのため、正直言って、本書が丁寧に説明している点については、子どもたちに指導している通りである、と言ってもよかった。ただ、それをさらに理論武装するためには、たいへん勉強になったのは事実である。「日本語文は枝状である」と断定するほどの勇気は、私にはなかった。
 ネタばらしはよろしくないが、私が指導している中心点が、本書の最初の方で並べてあったことはうれしく思い、ここに挙げることにする。まず「長文は悪文」だということ。「短いことはいいことだ」というのは、一文が長いことを徹底的に繰り返す私には、当然ではあるが、こうして掲げられると安心するのは確かだ。「なにが主格か」と「述語は基幹である」は、主語と述語の問題として、書き慣れない生徒にとっては特に狂いやすい点を教えてくれる。「なにを修飾するか」も作文のイロハであるが、自分の書いた文を読み返すときに、自然に気づくはずのことではあるけれども、なかなか他人の目では批評できない故に見落としがちである。
 なるほどと思わされたのは「は」についてだ。「は」で読点というのは、例外もあるが参考になったし、話題を提示する「は」の「イキが長い」ということは、改めて意識させられた着眼点であった。「並列語」のことも、細かく知ることができたし、作文の不自然さの指導のためにはとても役立つことだと思った。
 「接続語」と、「くせもの」としての「が」も、よく言われることだが、意識に上らせてくれる点で、ありがたかった。「が」の指摘については、清水幾太郎氏の名著がその嚆矢として有名だ。つれに続いて「句読点」の指摘があった。これが大変深刻である。どうして読点なしで何行も文が書けるのか、多くの子どもたちの神経を疑ってばかりだからだ。それに気づいてとりあえず打つものの、そこで打つのか、と疑問符が頭に浮かび続ける添削の日々は、いつも疲れるものである。
 このように技術的なことも大切だが、要は心がけである。「正しく伝える努力」があまりにもない文、自分だけには分かっていても他人から見て「曖昧な表現」、「表現の過不足」ということも、結局は「文と人間」との関係に帰結するように思われる。
 こうした第二部が、本書の要であり、作文指導をする者にはありがたい指摘の数々が見られた。
 最後の第三部では、「文章のリズム」や「詩」の意義さえ取り上げつつ、「機能的」ということについて、筆者の主張を以てまとめるような結びがつくられていた。  本書は、常に実例を以て説明がなされている。名だたる文豪の文も、「悪文」として次々と批判されてゆく。そもそも筆者は、出会う本や文章の中から、「悪文」の例を日に日にコレクションしていたのだ。筆記者のネームバリューなど関係がない。そこに文がある限り、悪文ならば俎に載せるべきである。
 そしてまた、とくに法律文が幾度も取り上げられていたのが印象的である。法律文は、正確に定義しないと、適用の際に問題が起こる。そのため、正確であろうとする余り、くどい文になったり、やたら但し書きの入った長い一文になりがちである。それをも的確に分析する例は勇ましかったが、さすがに私たちは、それほどの悪文は、普通書かないものである。法律用語にも疎い私には、その実例だけは、あまり真剣に検討はしなかった。しかし、他の文章は、文学作品であっても、丁寧に読んだ。そして、筆者が指摘するのを読む前に、その文の「悪文」たる理由は、大抵目についた。そうでなくては、生徒の作文を添削ができないからである。
 よい本だ。これでまた、自信を以て、作文指導ができる。私一人の思い込みではないことが分かったからである。




Takapan
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