本

『明るく死ぬための哲学』

ホンとの本

『明るく死ぬための哲学』
中島義道
文藝春秋
\1500+
2017.6.

 知る人ぞ知る、と言っては失礼か。社会に向けてやたらと吠えるおじさんとして、よく知られていると言ったほうがよいかもしれない。もちろん、カンニング竹山ではないが、文章の中での過激さは彼に負けないものと見られる。
 しかし、忘れてはならない。中島義道氏はカント学者なのである。大学教員としての経験も豊富なのだが、それでは哲学が十分にできないとして、一作家としての道を選び、哲学的な研究も生かしつつ世の中に提言を続けてもいる。しかし世におもねる訳ではなく、哲学的思考をいわば武器に、堂々と難しい議論もぶつけていく。事実、哲学塾を続けている。
 本書は、死を第一のテーマとしている。それは、著者が子どもの頃に覚えた死の恐怖からそれを考察して克服しようとする格闘からすれば、人生の第一の、否最大のテーマだとしていることから、いわば著者にとり究極の題材である。つまりライフワークだと言っていい。それを、年配向けの雑誌に連載していた原稿が集まっていたところ、その雑誌が廃刊となり、中途半端になりかけていたのを、思い立ってその続きをやや別の形でつないで、ひとつの本としてできるようにまとめあげた、そういう経緯があるらしい。確かに前半は、一般に向けて分かりやすい言葉で綴られており、もちろんそれは深いのであるが、まだ言葉を選んでいる。しかし後半は遠慮がない。完全に哲学の議論である。それは著者も最後に断っている。哲学的思考の訓練がなければ、また用語に通じていなければ読めるものではないであろうことを懸念している。だが、これはライフワークに関わるものである。ならば、読者に遠慮する必要はない。自分の言いたいことを言うために、最も相応しい言葉を探し、使うことになんの問題があるであろう。あとは読者が如何様にも料理してくれということで、言いたいことを言い放つ、それは大切なことではないだろうか。
 身近な方でも、年齢を意識すると、言いたいことを言っておくことの必要性を覚えると口にされる方がいる。商業的なことや立場的なものを意識して、歯に衣着せたような言い回しでお茶を濁すことをやっている場合ではないというものだ。下手をすると老人の暴走ともなりかねないが、こと思想に関しては、それは当然のことなのではないかと思う。理数系の貢献は若いときでないとなかなかできないが、文科系の分野では年齢を重ねたほうが、経験などを踏まえたり世の中を広く見渡せるようになったりということもあり、良質になっていくという意見もある。年齢で決める必要はないが、どうか人生の中から生まれた思想を、思い切り現して戴きたいと願う。
 私も哲学の現場を離れているから、本書の後半は少しばかり難解に感じた。だが、私もこの著者とスピリットは実は重なる。ある意味で同じなのだ。ただ私はその中途で、キリストに出会うという体験をした。そのときに答えは与えられた。著者は哲学の道で格闘している。何かしら答えは得ているのではないかとも思うが、恐らく心情的には途上なのではないか。つまり、まだ終わりのない探究を続けているということだ。何もキリスト教がいいのだというような意味で言っているのではない。
 私はだから本書が如何に難しい言葉や議論を呈していても、言おうとしていることは了解しているつもりだ。特に私はほぼカントしか知らないのであるから、著者のカント解釈が一般のものと違う点も踏まえつつ、だがカントを持ち出したときにはその内容はそれなりに分かるし、たとえばヘーゲルとて実のところカントを克服したわけではないというような解説があると、正直うれしくなるのも事実である。
 本書における死にまつわる哲学的な議論が妥当であるかどうかには、また感情的に全部をそのまま受け容れるという訳ではないが、ともかく言っていることは伝わってくるように感じる。世界は実在しないとか、私が不在であるとか、それだけ聞くとなんやねんといちゃもんをつけたくなるような言明も、論理的に丁寧な説明を施してあるので、それなりの思考訓練がなされていれば必ず読める。そしてなるほどと思えるところは沢山ある。
 本書は比較的新しいものであるから、著者の到達したかなり目標地点に近いものではないかと思われる。まだこの先の到達点を拝見したいと思っているが、その意味でもまだまだゴールには届いてほしくない。ゴールというのは、著者がもう死を論ずることができなくなる時である。そして私もまた、併走している。




Takapan
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