本

『あかちゃん ル・ベベ』

ホンとの本

『あかちゃん ル・ベベ』
マリー・ダリュセック
高頭麻子訳
河出書房新社
\1,600
2003.7

 不思議なアフォリズム。断片的な表現は、ちっともまとまりをもたないし、詩的な表現が言い切られていると、その正しい意味を理解するのさえ覚束ない。
 それでも、この言いようもないリアリティは何なのだろう。自分に赤ちゃんができたことで描かれる、日常の中の何気ない風景が、こんなにも身体的に、等身大的に波打っていくというのは、どういうものだろう。女性にしか書けない世界だろう。この、肌で感じるような実在感。
 作家活動を営むその母親は、生活の実感のすべてを、たとえ細々とした形によってではあっても、真実として映し出そうとした。
「彼が笑みを浮かべてくれるのは、何週間ものミルクとげっぷ、おしっことウンチのトンネルの果て、私たちが限界にきたときである。彼は正にぎりぎりのところで、私たちに微笑みかけて、私たちを魅了し、彼を守ってあげたいと思わせるのだ」
 ただこれだけで一章を形成するような構成である。そしてこの真実性は、今まさに「赤ちゃん」が家にいる私なら、理解できる。産み、育んでいる母親ならば、ますます、その通りだと手を打っていることだろう。悲しいかな、男にはその実感という面で不利になる。それでも、微笑み一つにすべてが許せるのは紛れもない真実である。
 たんに、それは観察日記に終わらない。テレビを見、そこに最大限の想像力を働かせ、世界の隅々までも、子どもたちの未来に、そして大人の愚かさに対して発言しようとする。恰も、言葉を出さなければ生きてはゆけないかのように。
「「悪魔のような」、「聖戦」、「十字軍」、「善と悪」――あかちゃんが私に、神は存在するのかと問うときが来たら、私は、存在しないといいね、と答えよう」
 もちろん、神は存在するのだ。それしかありえないのだ。だが、この大人たちの築く世界の醜さは、何というものだろう。こんな世界でよいと満足するくらいなら、神は存在しないほうがよいのだ……。
 赤ちゃんにカメラを向けることは多いが、そのとき誰もが感じる言葉を最後に提供しよう。
「私が撮影しだすと、彼は笑うことも、あんなにかわいい顔もやめてしまう。びっくりして機械を見つめるのである。どの写真も同じ表情になってしまう。何をしているんだろう、と考えているのだ」




Takapan
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