本

『「あいつらは自分たちとは違う」という病』

ホンとの本

『「あいつらは自分たちとは違う」という病』
後藤和智
日本図書センター
\1575
2013.10.

 若い著者は、これまでも、人目を引くようなタイトルの本で声を届かせてきた。書籍の販売において一定の仕事をしてきた人であるようだ。若いのに、というか、若いがゆえにかもしれないが、多くの現場での意見を取り入れ、また「おとな」の思い込みに抵抗し、その難点をきちんと突こうと努めている。
 その手法は、科学的であとか合理的であるとかいう路線のようだ。つまり、一定の統計なり社会学なりの方法で信頼性のあるデータを基にしてでないのに、「今の若者は……」と括りがちな「おとな」の述べ方に、どうにも我慢がならない、ということのように見える。
 それはそのとおりだ。ニューアカだのなんだのと世代的な思想の流派を多く取り上げてはいるものの、ぶっちゃけて言えば、おじさん好みの週刊誌の見出しになるような「若者論」が、非科学的でおじさんの自己本位な酒場のくだまきレベルのものでしかないのだ。著者はそのように言うのだが、ともすればそれは理論武装しようとしているような言い方のように聞こえないこともない。
 その点、ネットの中の読者も感じているようで、非科学的な根拠により若者論がなされているとすれば、それを一蹴しようと吠えている著者も、同じ指摘を受けて然るべきではないのか、という声があるのだ。それは著者のことを思うとやや気の毒な言い方であるようにも思えるが、たしかに、どんどん論を展開させていくにつれ、著者自身が、「いわゆる」若者論のありさまに馴染んでいってしまうのではないか、という危惧を覚えたのは私も同様である。
 もとより、私はそうした議論に関心はあるものの、専門的な知識はないし、サブカル的な分野のリーダーにもなった思想界のホープにも寄り添うことはなかったので、実のところ内容的についていくことのできない者である。批判めいたことをするつもりはない。ただ、実のところ、やはり著者がいきり立って抵抗しているその「若者論」たるもの、あまり大した存在価値のないものではなかろうか。そんなに躍起になって歯向かうだけの価値がないような気がするのだ。
 いや、気持ちが分からないわけではない。若い世代は、自分たちのことを何もかも分かったような物の言い方をする「おとな」には頭にくるかもしれない(そう決めつけられるような言い方もまた面白くないだろうが)。「おとな」にしろ、そんなに分かって言っているわけではないし、自分の分かる範囲に相手を押さえておくことへの欲求みたいなものは、これは「おとな」ならずともあるものなのだが、ひとり納得して安心したいという心理は、著者も指摘しているように、確かにあると思う。しかし、カチンときたにせよ、そこから著者が猛然と、しかも論としてあまり整理されておらず行き当たりばったりに吠えかかっているようなこの本の流れを見ていると、先程も使った表現ではあるが、理論武装した自己肯定という、いわばまさにその「若者」がやりがちな態度を、著者もしっかりとっているようにも見える。もしそのとおりであるとすれば、皮肉なことに、著者自身が、批判するその「若者論」を正当化する証拠となっている可能性すら出てくるというわけである。
 世代論として取り上げているが、そんなに世代論は大きいものだろうか。「おとな」たちの遊び7やくだまきのようなものが当の若者たちにとって失礼なものであるという点は否定しないが、やはり人生をそれだけ生きて経験を多少なりとも多くしている「おとな」から見たときの、若者の傾向や印象というものは、正直あると言えるのは事実だ。もちろんそれが適切であるというつもりもないし、ましてや科学的な言明であるなどと言うつもりはない。それでもおとなたちとて、科学的に若者たるものは、という命題を世に提示しようとしているわけではないことも確かだ。あたかも若者一人残らず通じるような言い方に聞こえたとしたら、それもまた若者に対して確かに失礼なことだが、著者はまるで、自分にはそれは当たらないんだが、というふうに、逆鱗に触れたような反抗をしているように見えなくもないのである。
 人間は変わることがない、というのもひとつの真理だが、人間はその時代により変わる、というのもひとつの真理だ。今の子どもたちは、生まれたときからケータイがある。意味も分からずスマホ操作ができる。そこにたちまち魔法のように絵や音が出てくる。幼いときから、世界はそのようなものだとまるで空気のように受け容れてものごころつくようになってくる。こういう世代は、世界観がまた違うであろうことは十分予想できるものだろう。だから、一種の世代論は、科学的な命題として挙げられているわけではなく、世の知恵というものである。それを、著者のように、科学的でないから言うべきではない、と断ずるのは、ちょっと場違いな気がしないでもない。諺には矛盾する内容があるから意味がない、と私たちは考えない。「おとな」たちのしたり顔な若者観は、的を射ているとは言えませんよ、と指摘すればよかったのではないだろうか。
 逆に、「おとな」たちからの視点をひとつ提供してもよいだろうか。そのように、世界文学の古典やヨーロッパ思想の源流などを、曲がりなりにも経てきたり、あるいは経ることに敬意を払ってきたりしている「おとな」たちから見れば、突然世界を切り取り始め、伝統や過去の哲学から切り離された思想を操るような若者には、威勢はよいが、どこか薄さや脆さを感じることがある。しかもそれが、相手を否定し、自分を肯定するという目的のためにどんな手段でも用いるとなるとき、それが行動に移ることを危惧する。学生運動の歴史を振り返るといいだろうし、宗教的理想と過激に流れた事件を思い返すのもいい。若者とは限らないが、人が自己義認を始めたとき、非常に恐ろしい存在と化してしまう、ということは十分懸念の材料になるのではないか。
 週刊誌やマスコミのアジテーションに対して大掛かりな理論武装をする必要はない。せっかくの著者の情熱と見聞である。もっと深さと広さを得ることができるようになったら、また味のある、しかも大胆で面白い視点を提供できるのではないかと期待したい。そして、このような知的に優れた著者が、20年後に、まさか自分が批判した「おとな」と同じようなことを正当化し始めるようなことだけは、してほしくないと願う。




Takapan
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