本

『あひる』

ホンとの本

『あひる』
今村夏子
角川文庫
\520+
2019.1.

 ラジオ番組での紹介の仕方が楽しそうだったので、読みたくなった。動機は単純だ。映画になった「星の子」に考えさせられたのと、子どもの心をぐいぐいと描いてくるなぁというあたりで、今回の、たぶん児童文学と言っても怒られないような作品にも、楽しみがあった。
 つまりは、言葉そのものも難しくないし、キャラクターも小学生など若い世代である。丁寧に描いてあるので、強力な想像力を要するというほどのものでもない。だが、ぼうっと読んでいると、いい場面を見逃してしまいそうだ。油断はならない。
 2016年に発行された単行本を文庫化したものだというから、文庫に特別な何かが付け加えられたというわけではなさそうだ。行間がゆったりしていて、読みやすいのも、小学生が無理なく読めるということを配慮しているのではないかと思われる。
 本書には、三編が収められている。表題の「あひる」と「おばあちゃんの家」、そして「森の兄妹」である。どこかつながる世界があるし、そのつながりを感じさせる仕掛けもあるようだが、さしあたり別の物語として読んで全く差し支えない。
 ラジオ番組で紹介されたのはこの「あひる」だった。途中からなんだか本当に楽しそうに思えたので、これはラジオを聴きすぎず、ぜひ本編を読もうと思った。ひょんなことから、義理か何かであひるを飼うことになった。学校帰りの小学生もそれに気づき、あひるを観察に立ち寄る、あるいはそこで時間を過ごす。ところがあひるの具合が悪くなり、ある日気づいたら病院に連れて行かれていた。しばらくして戻ってきたが、はて、これは最初のあひるだろうか。こんなことが何度か繰り返されるという中で、最後は不思議な場面で終わることになる。もちろん種明かしはできないので、筋書きや秘密めいたものについて喋るつもりはない。ただ巻末の「解説」がなかなかグサリとくるものがあったので、物語の奥に潜む残酷な眼差しが、急に怖く感じられるようになった。そう、それは読みながらうっすら感じていたものなのだ。しかし、まさか子どもの読む物語にそんな、とブレーキがかけられていたのかもしれない。いったい、この「あひる」は何者だったのだろう。それは、私だったのかもしれない、というところに気持ちが向くと、怖くなるのである。
 認知症がかったおばあちゃんとの交流が描かれる「おばあちゃんの家」は、子どもの目線であることから、おばあちゃんが普通ではないと思う気持ちと、だから嘘もなんでもこちらの自由に扱えることがあると思っていながら、本当はおばあちゃんこそ自由だったのかしら、と思わされるところもあり、謎めいている。
 同じように不思議なおばあちゃんが登場する「森の兄妹」は、一風変わった家庭のモリオとモリコの物語。「魔剣とんぺい」というコミックスが軸になって展開するが、おやつは自然の木の実などだという浮世離れした、しかしかつてはありえたような生活の中で、その実を採っていた家のおばあちゃんに呼ばれて、気持ち悪く思う。モリオからすれば理不尽なことを言うお母さんも、絶対に従うしかないという子どもの目線で描いているが、どうにも不思議なことばかりが起こる。それもきっちり説明しようとはせず、物語は終わる。
 後の二つには、おばあちゃんの誕生日を祝う場面が出てくる。年老いた弱い存在としてのおばあちゃんだろうか、その誕生の記念を若い者たちが祝う。ここにも何か思惑があるはずだ。もはや重ね上げる必要があるのだろうかと思われるような、誕生日。年齢を増やすことにもう飽き飽きしてはいないのだろうか。意味があるのだろうか。子どもが誕生祝いをするのとは訳が違うことは分かる。子どもの誕生祝いなら、「あひる」に実は登場している。三つが三つ、誕生日のお祝いが出てくるのだ。
 実は登場人物も、誰がどういう関係なのか、どこからどう登場したのか、不明なことが多い。「あひる」に至っては、物語を語る「わたし」すらなんだかよく分からないのである。物語に存在する人が果たして存在するのか、しないのか。それは誰なのか、なんだかさっぱり分からないでいることがあるという気がしてくるのだ。不思議な世界だ。この居心地の悪さ、それが今村ワールドなのかもしれない。どっしりとどこかに視点を定めて物語を体験していくというよりも、現実感を失ったキャラクターたちが浮遊しているかのような錯覚にさえ陥りそうである。
 それは、実は子どもたちの生きている毎日の世界がそうなんじゃないか、というところまでは、私もアプローチできたが、そこまでだ。
 読む者にそんなことを考えさせる愉しみのおまけ付きである。




Takapan
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