本

『やりなおし高校国語』

ホンとの本

『やりなおし高校国語』
出口汪
ちくま新書1105
\780+
2015.1.

 大人が、もう一度学生時代に学んだことを振り返る、という企画が始まってどれほど経つだろう。昔聞いたことならば、いくらかのきっかけで蘇ることも可能なわけで、同じ学ぶにしても、全く新しいことを理解していくだけのエネルギーを必要とはしない。つまりはお手軽に「勉強」ができるわけで、新たな購買層を開拓したとして注目されるべきことであった。
 逆に、せっかく学んだことをもう一度振り返る、あるいは改めてものにする、そういう機会を求めていた人々がいる、ということもその現象から分かった。
 この本も、タイトルだけからすると、そういうことなのか、と思わせるものがあった。そのつもりで開いてみた。ところが、思惑が外れた。これは明確な意図があり、並み居る類書を超えて、読者に強く迫ってくるものがある。
 それは、実はサブタイトルで明らかにされているのだった。「教科書で論理力・読解力を鍛える」とそこにはある。これだった。大人には、論理力と読解力が必要なのだが、それを鍛えるために、高校の国語の教科書が如何に相応しいか、が本書の主題なのである。
 さらに、ちくま新書には、表紙に要旨が書かれている。「実は、国語ほど実際に役立つものはない」というところから始まっている。
 論理力のひとつは、数学である。しかし、高校の抽象数学になっていくと、専門性が加わり、たんなる論理性を超えていく部分も出てくる。それに引き換え、国語は、高校において、ますます磨きがかかるというか、実生活で出会う事態と社会の陰の部分などがずばり入ってくる。そもそも、人間の思考は、言語においてなされる。言語活動、それが論理でもある。これを育てるために、高校の国語は実によく考えられて作られている、選ばれているのだ、と筆者は言う。予備校講師としての真骨頂であると言えばそれまでなのだが、これは真実であると私は思う。
 かくして、高校の国語の教科書の定番の文書が選ばれ、そこに分析、あるいは筆者のコメントが入っていく。さながら文章の行間と背景を読み解く予備校の授業のような展開なのであるが、そこに流れるのは、読者が自分の身の丈に合わせて名作をかじるような読み方ではなく、的確な読解というものがあるものだ、というスタンスである。つまりは国語の問題というものは、正しく読み解くための根拠があるのであって、読者が自分の甲羅に似せて掘った穴で解釈するだけのようなシロモノではないのである。
 漱石や鴎外、小林秀雄などの著名な作品を堂々と取り上げ、そこにたんなるイメージだけで捉えるべきものではない、ちゃんと書いてある作者の真実があるのを読み解くことができるとするその指摘は、実に爽快である。こうしたずばり直球の指摘を、これまでの類書の著者がどうしてしなかったのか、いまにして思えば不思議である。
 国語をやり直すだけの価値は、確かにある。そうした実感を確信の域に導いてくれる。読み応えがあり、役立つものである。




Takapan
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