本

『アフターダーク』

ホンとの本

『アフターダーク』
村上春樹
講談社文庫
\514+
2006.9.

 村上春樹を読み慣れてくると、その読みやすさが心地よくなってくる。しかし、彼の優れたところは、天性のその読みやすさに加え、他人が真似できない描写を、新たな視点とともに提供してくれることである。本作でも、びっくりする視点を、恐らく実験的にであろうと思われるが、もたらしてくれている。
 それは、神の視点と呼ばれる第三者的描写を、神ではないがそのような侵入者として存在感を与えることである。村上春樹は、一人称が優れていると私は思う。デビュー以来多くがそうだった。一人の男の視点が貫かれることで、リアリティが増したと思われる。それは男性的なものに過ぎないかもしれないが、そして女性からの共感が得にくい危険を冒すことになるかもしれないが、一見不要な詳細の描写が、物語にどうしても必要なディテールであったと納得させる不思議な魅力をもっている。
 その村上春樹が、誰だか分からない透明人間を装い、場面を除きながら描写するという不思議な試みをここに実現した。当事者の主観でない、だが客観とも言えない、何ものか侵入者が勝手に自由に世界を見渡し、観察している。
 そして主人公は、たぶん男性ではない。だからその内面を描くというよりは、客観的な視点を必要としたのかもしれない。
 アフターダーク。すっかり日が暮れ、夜を徹する中での出来事を、物語は辿る。章立ては、すべて時計で示される。それもデジタルではなく、アナログだ。時間の経過を、量的に感じさせる道具を用いた。夜中の零時にあと数分というところから始まる。場所はデニーズの店内。熱心に本を読む、未成年の女子。それがこの一晩の間に不思議な体験をし、自分の望んでいたことへの再考もさせられる。場面を変えると、その姉の不思議な姿も描かれて並行的に読者にもたらされるが、その関係もまた謎めいて傍流を形成している。
 しかしともかく異様な雰囲気を醸し出すのは、謎の視点である。描写は第三者的になり、それで徹底されるが、時折「私たちは」が入ってくる。これが物語の語り手であり、「視点」である。「私たち」というからには、複数である。それが誰であるかは全く説明されない。誰なのだろう。
 それは自由に解釈していよいのだろうと思われる。しかし私は、それは私であり、読者たちではないかというふうに思えてならなかった。覗き見趣味であるかもしれないし、登場人物の誰かに身を寄せることのできる、あるいはそうすべきであるというような、この小説の読者のことであってよいのではないかと感じる。
 姉の友だちというちょっと軽い男の子。その子はバンド練習のために一旦消えるが、中国人を巡るトラブルに女の子は呼ばれ、そこで魅力的な元女子プロレスラーと知り合う。かなりやばいグループとの接点をもつし、事件を起こした、一見善良な市民として働いているような男も関わってくる。そして眠り続ける姉。
 きっと何かを暗示しているのだろう。作者なりの思惑や設定があるのだろう。それを見破れたら読者としては「勝ち」なのかもしれない。もちろん相変わらず、実際のアーチストと曲が盛んに持ち出され、それを実際に流しながら読むと、ムードが増すのかもしれないし、もしかするとそこに含まれている意味も感じ取られるようになるのかもしれない。映画『ある愛の詩』も小さくない意味を以て持ち出されてくるが、それが謎解きの意味をもつというのもまた言い過ぎであろう。でも、無関係ではない。
 正体不明のキャラクターもいる。その意味を私たちは説明することはできない。さすがのハルキストの中にも、首を捻ることの多い問題作であるようだ。ひとつの実験的な試み。決して物語が大きな展開をもつものではないままに、もやもやと進んで一夜が明けるだけという過程。しかし、解決感はないものの、登場してくる人物や物事が、有機的に関わりをもって絡まり合って進んでいく有様は、初期の頃よりも落ち着いている。その意味では、安心して読んでいられる作品であったと私は個人的には喜んでいる。




Takapan
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