『あたしの一生 猫のダルシーの物語』
ディー・レディー
江國香織訳
飛鳥新社
\1300+
2000.7.
文庫の姿のものを見つけたが、図書館にハードカバーのものがあった。ハチワレ猫のイラストがリアルである。イラストは、ジュディー J・キングという方のものらしい。ところどころではあるが、ペンによる点描の画が、特別に可愛く見せるようなタイプではないままに、猫のダルシーの人生を印象づけてゆく。
猫の視点から、猫が語る仕組みになっている。それが特別に珍しいとは思わないが、本書はその猫の心を、本当によく描いていると思う。猫がもし言葉を解して、本を綴ったとしたら、本書のように書くのではないだろうか、と思わせるに十分な力をもっている。
原題は「ある猫の一生」というような形をとっているが、訳者の江國香織さんは、これを「あたしの一生」とした。本編はすべて「あたし」の連続で書かれている。「私」ではなく「あたし」である。このセンスがまたいい。確かに自ら猫が語る自伝には、日本語のこの「あたし」が似合うのである。
あたしの物語は、生まれて二、三週目あたりから、母猫が言った言葉から始まる。猫はそれぞれ、誰か人間に引き取られて生きていくようになるのだ、と教えられるのである。
こうして、そこから猫の心理のままに世界が描かれてゆく。七週目、ひとりの女のひとが現れ、自分を求めた。人間のすることが、猫の視点から生き生きと描かれる。その魅力は、実際に読んでみなければ伝わるまい。どうぞ直に体験して戴きたい。
この飼い主だが、「あたし」は終始「あたしの人間」と呼ぶ。これも面白い。名前という認識よりも、「あたしの人間」なのである。もうこの段階から、物語のユニークな視点は爆発している。
あたしは、「ダルシニア」と名づけられる。愛称は「ダルシー」である。ただ、「あたし」は常に「あたし」であって、別にどう呼ばれようと、気に入られているなら、愛されているなら、それでよいのである。「彼女は、あたしたちは友だちだって言った。でもわたしは知ってるの。彼女はあたしの《しもべ》。あたしは彼女の女主人」(p20)というところで、読者はもう、猫のものとなってしまうのであった。
あたしは、時折「歌う」。もう少し正確に言えば、そのときの思いを「詩」に表す。これは最後まで続く。「詩」は、心を表すのにとてもよいのだ。説明してしまわない。論理的に告げようというつもりはない。だが、そこに現れた言葉を通じて、他者はあたしの心を感じることができる道をつくるのだ。誰もが正しく理解してくれるとは限らない。うまく分かってくれることはそうそう期待できない。だがそこに、確かに道がある。この道は、あたしの心に通じている。なにしろあたしから発しているのであるから。そんな「詩」が、物語の要点をしっかりと押さえている。
どんな生活が始まってゆくのか。どうその生活が定着してゆくのか。ときに引越しもあるし、食べ物についてもいろいろな経験をダルシーはしてゆく。必要があって、幾度か「ジューイ」に連れて行かれる。あまり好感を持っていない獣医だが、抵抗はしない。予防接種の最初の出会いから、瀕死のときにも、幾度か医療体験をする。
同居の猫も現れる。ダルシーは、自分だけが愛されているのではないことを知る。後にまた、子猫が現れて、「あたしの人間」が、その子猫にべったりになる様子も冷たく見つめている。ただ、その子猫は「悪すぎた」ため、ついに家から出てゆくことになる。
もうひとりの無邪気な同居猫とは、つかず離れずの関係を続けていたが、病気のために先に亡くなってしまう。
私はその描写に驚いた。病気で弱っているのは分かっていたが、「あたしの人間」がジューイのところに連れて行ったら、その帰りに猫は遺体で帰ってくるのだ。病気が重いと、ジューイは「安楽死」をさせるのである。これがアメリカの猫に対する愛情であるようなのだ。
後にダルシーも、「安楽死」させられそうになるが、持ち直してそれは免れる。この文化の違いには驚いた。それとも、日本でも、そのようなことはしばしばあるのだろうか。
ダルシーは、最期まで歌う。そして、ちょっと胸をキュンとさせられながら、読者は本を閉じることになる。ダルシーは、人間を愛していた。人間は、ダルシーを愛していた。大袈裟に言わないまでも、そのことが物語全編から伝わってくる。
1992年、現代の流行作品なのだろう。けれどもただ消え去るような気はしない。猫を愛する心をもつひとには、ダルシーの詩が、心にしっとりと遺り続けることだろう。

た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド