本

『吉野弘詩集』

ホンとの本

『吉野弘詩集』
清水哲男編解説・山田太一エッセイ
ハルキ文庫
\680+
1999.4.

 私の好きな詩人だ。私の中でもやもやとしながらも、言語化できなかったことを、さらりと言葉にして見せてくれる。否、「さらりと」ではない。最後に山田太一さんが明かしている。2行の詩を決めるまでに、幾度も書き直し、それでよいか見つめて考えているのだ。
 吉野弘の魅力のひとつは、その言葉の選び方だ。使われている言葉は、さして難しい言葉ではない。むしろ私たちの日常使う、自然な言葉だと言ってよい。しかし、その選択と並べ方によって、新しいものが生まれてくる。何気ない言葉によって、かくも様々な視点を提供してくれるのか、と驚くばかりである。
 それは、深いところを見ているからであろう。あるいは、違うところに立って見ているからであろう。同じような感動の仕方は、私がオフコースに出会ったときと似ている。その言葉の用い方が、私の心を捕らえた。
 もちろん、それはたんに私の感性だけの問題であるかもしれない。万人に同じような感じるであろう、と言いたいのではない。その言葉の並べ方に魅力を感じない人がいても構わない。それでも、私はこの人の見方・感じ方が好きである。自分と重なるものを強く覚えるのだ。
 国語の問題にもよく用いられる。私も最初に知ったのは、教科書であるはずだ。だが、どこにあっても、ふと聞いた詩、見た詩が、心に引っかかったとき、その詩は吉野弘のものであった、という経験を何度もしてきた。だから、この詩集で概観しても、確かにそれはそうだろう、と納得した。
 一つひとつの詩は長くない。だが、ぐいと心を握られる箇所がある。その中で、「漢字遊び」としてまとめられたところには、漢字ならではの面白みが多々ある。さすがにこれは英訳などはできないだろうと思われるが、もしなされていたら、どのようになされていたのか、興味深い。逆に、西洋の本での言葉遊びの邦訳を思えば、きっとうまい人がいるのだろうとも思うけれども。そう、『不思議の国のアリス』の訳も、「マザーグース」の訳もそうなのであるから。
 漢字は、一つひとつに意味があり、また視覚的効果も大きな文字である。そこに心を注ぐことは、確かに大いにありうることである。互いに支え合うことで「人」という字ができている、などというのは、武田鉄矢の先生役でもおなじみだが、それにしても、本人が後に、あれは漢字の説明としては正しくない、と告白していたように、ここにある吉野弘の漢字の説明も、文字の由来を説明しているのではない。たんに感覚ではある。しかしそこに、意味を見出しているというので、不思議な世界を醸し出している。
 私はあまり好みではないのだが、割り切って愉しめば、それはそれでいい。そう思いつつ、どきりとするものもある。「折と祈」という詩だが、ここだけ敢えて引用させて戴くことにする。
 
  自我を折ることが出来て
  初めて祈ることが出来る
 
これは全く、福音のメッセージにほかならない。言葉の真実は、言なる神のなせる業だと言えないだろうか。人の心の真実に目を向けようとするとき、その眼差しは、神の言葉と人が信じるものと、重なることがあるものだ。
 ここで詩をご紹介することは、これ以上はできない。私の心はこれらの詩で豊かにされるように思えるし、詩人の息づかいが感じられるような思いを覚えるとき、言葉と心とは確かにつながるものだ、ということを固く信じられるような気がする。私が吉野弘の心を分かっている、などとはとても言えないが、私という小さな人間の心を照らしてくれる言葉を、こんなにも投げかけてくれて、ありがたいと思うばかりである。
 私はいま、2014年発行の第14刷を手にしている。カバーには、その年の1月に逝去されたことが記されている。そう、あのときはショックだった。お年を召しておられたのは事実だが、やはり悲しかった。その言葉が遺っている。言葉に乗せて、その心も伝えていくことが、私たちにできるだろうか。




Takapan
ホンとの本にもどります たかぱんワイドのトップページにもどります